横浜市域には、江戸時代、東海道の宿場があり、旅人たちで賑わいました。
横浜旧東海道コラムの第3弾として、今回は戸塚区にゆかりの深い、東海道戸塚宿を紹介します!
江戸日本橋から10里半(約42km)に位置した戸塚宿。江戸を発った旅人が初日に宿泊する地として知られ、『東海道中膝栗毛』の弥次さん喜多さんの一泊目の宿もこの地でした。
また、戸塚宿には東海道から鎌倉へと分かれる道があり、そのことを示す史跡や浮世絵などが残されています。さらに、戸塚宿は文化的な活動が非常にさかんな町で、地元の文人たちゆかりの石碑や記録なども現代に残されています。今回は、史跡や浮世絵、当時の記録などから、鎌倉への分岐点としての戸塚宿や、地元の文人たちの足跡をみていきたいと思います。
鎌倉へとつながる地
東海道から鎌倉方面への分岐が戸塚にあったことは江戸の人々にも知られており、歌川広重(初代)の「東海道五拾三次之内」にも取り上げられています。戸塚宿を象徴する浮世絵として現代でもなじみのこの作品は、東海道が柏尾川を渡る吉田橋(現吉田大橋付近)の情景を描いたもので、橋のたもとに「左り かまくら道」の道標があります。鎌倉をめざす人々は、ここから東海道と分かれ、柏尾川沿いを南下し、大船を経て鎌倉へと向かったようです。
東海道五拾三次之内 戸塚 元町別道(保永堂版)
広重(初代)画
天保4~5年(1833~34)
横浜市歴史博物館所蔵
この作品に描かれた道標とされる石碑が、近隣の妙秀寺に保存されています。
宿場の中心付近に鎮座する八坂神社の前にも鎌倉への分岐点がありました。当時の戸塚宿の家並みを描いた古文書にも、ここから分岐する「かまくら道」が記されています。東海道から分かれて東へと進むこの道は、柏尾川を越えて、吉田大橋から分岐した道と合流します。現在、八坂神社前の交差点には「これより かまくら道」と記された道標が残っています。
八坂神社前のかまくら道分岐点
(「相模州鎌倉郡富塚宿町絵図之写」より抜粋、小林加筆)
文化2年(1805)
横浜市歴史博物館所蔵
戸塚(「富塚」)宿の家並みを記した図です。中心を横に貫くのが東海道で、右が江戸方面、左が京都方面。鳥居がある「天王社」が八坂神社で、そこから少し京都方面に進んだ下側に「かまくら道」と記されています。
東海道沿いに鎮座する戸塚の総鎮守、冨塚八幡宮でも、鎌倉とのつながりを感じさせる石碑に出合うことができます。それは拝殿へと向かう石段脇に建つ、松尾芭蕉の句を刻んだいわゆる「芭蕉句碑」です。表面には次のように記されています。
鎌倉を いきて出けむ はつ松魚(鰹) 芭蕉翁
鎌倉産の初鰹の活きのよさを詠んだ句です。水揚げされた鰹は、鎌倉を出て戸塚宿から東海道を通り、江戸へと運ばれたようです。冨塚八幡宮の句碑にこの句が採用されたのも、こうした背景あってのことかもしれません。
このほかに、戸塚宿を題材としつつ、鎌倉のイメージを描いた浮世絵もあります。戸塚が鎌倉へとつながる地として知られていたことがわかりますね。
東海道名五十三次 六 戸塚
北斎画
文化年間(1804~1817)
横浜市歴史博物館所蔵
家並みの背後に鎌倉大仏が顔をのぞかせています。描かれた旅人たちも、これから鎌倉に向かうのかもしれません。
東海道一ト眼千両 戸塚 早野勘平
広重(二代)・国周画
慶応3年(1867)
横浜市歴史博物館所蔵
早野勘平は「仮名手本忠臣蔵」の登場人物。主君の一大事に駆け付けられないという失態をおかした勘平は、恋人お軽とともに鎌倉の足利館を出奔します。戸塚の山中はふたりの道行きの舞台になりました。勘平の背後には戸塚宿西側の大坂が描かれています。
東海道五十三対 戸塚
広重(初代)画
天保14~弘化4年(1843~47)
横浜市歴史博物館所蔵
上部の歌は「かまくらを 出る鰹に つれたちて やほ(ぼ)ないなかに なく郭公(ほととぎす)」。芭蕉句碑にもあった鎌倉の鰹が詠み込まれ、「つれたちて」という言葉や山道を行く女性からは、お軽勘平の道行きのイメージも浮かんできます。
戸塚の文化人と紺屋友八の旅
さて、冨塚八幡宮の芭蕉句碑ですが、実は、嘉永2(1849)年に戸塚の地元の文人たちによって建立されました。戸塚宿にはこのほかに、清源院と、街道から少し離れた街山(つじやま)八幡社にも芭蕉句碑がありますが、いずれも江戸時代後期に地元の文人たちが建立したものです。戸塚で俳句が盛んだったことがうかがい知れます。
さらに八坂神社の境内には、戸塚の文化サークルを象徴する石碑が建っています。石段を上り、拝殿向かって右側に建つ石碑のうち、奥側にあるその碑は、戸塚宿の文人・長坂知雄(号:玄節)の七回忌に建立された追善碑です。碑には玄節の詠んだ長歌が記され、下部には、建立のために出資した、門人など50名あまりの人名が刻まれています。この人々は戸塚の文化サークルのメンバーであり、玄節はその中心的な人物だったといわれています。
この出資者の中に、「青木安恭」という人物がいました。この安恭は、海蔵院のほど近くに住んでいた地元の画家でしたが、父の友八も紺屋を営みながら絵をたしなむ画家でした。友八は、近隣に住む狩野派の画家に師事し、青亀斎の号で作品を残しています。
四季農耕絵巻より
狩野玉燕筆、青亀斎写
文化11年(1814)写
横浜市歴史博物館所蔵
幕府御用絵師の狩野玉燕の作品を、友八(青亀斎)が写したものです。
友八は文政7年(1824)、64歳の時に西国を巡る旅に出ました。東海道を伊勢へ向かい、奈良、高野山、讃岐の金比羅宮、明石、須磨、大阪、京都を経て中山道で善光寺、それから日光をまわり、日光街道で江戸へ出て東海道で戸塚に帰るという大旅行です。期間も1月5日~4月9日と約3か月の長期間にわたりました。友八はこの旅を日記に残していますが、印象深かったと思われる風景が挿絵として随所にちりばめられており、絵描きならではの旅日記となっています。
戸塚宿紺屋友八西国旅日記より
青木友八
文政7年(1824)
横浜市歴史博物館所蔵
友八が描いた二見浦の風景。
友八の旅には複数人の同行者がいましたが、ほぼ全員が戸塚の文人で、八坂神社の長坂知雄の碑に名前が見える人物も含まれていました。この旅は、いわば戸塚の文化サークルの趣味人たちによる、風流の旅だったのです。
こうして、残された史跡や記録をみていくと、鎌倉へとつながる地、地元文人たちにより文化が花開いたまち、といった戸塚宿のイメージがふくらみます。戸塚宿を訪れる際には、ぜひ道標や石碑などにも注目してみてください。江戸時代の地元の人々の息吹を感じられるかもしれません。
※年月日は和暦を用いています。
※「戸塚の文化人と紺屋友八の旅」は、井上攻「「戸塚宿紺屋友八西国旅日記」について」(『横浜市歴史博物館紀要』5、2001年)を参考にしました。
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「横浜に生きた人々の歴史」をテーマに、横浜市域の原始から近現代の歴史を展示する常設展、年数回開催される多彩な企画展、国指定史跡「大塚・歳勝土遺跡」を中心とした遺跡公園をお楽しみいただけます。
■横浜市歴史博物館
住所:神奈川県横浜市都筑区中川中央1-18-1
TEL:045-912-7777
開館時間:9:00~17:00(チケット販売は16:30まで)
休館日:月曜(祝日の場合は翌火曜)、年末年始
アクセス:横浜市営地下鉄センター北駅より徒歩5分
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