お城探検第6弾は、いよいよ現存十二天守「丸亀城」登場!江戸前期の天守と「扇の勾配」の石垣美を堪能してきたぞ

 (公財)日本城郭協会が選定した「日本100名城」にも選ばれている名城、丸亀城があるのは、香川県・丸亀市。瀬戸内海を望む同市の少し内奥に入ったところに、標高約66mの亀山があり、ここに築かれた平山城が丸亀城。なので、別名亀山城と呼ばれている。古代中国神話の四霊の一つ、霊亀が、背中の甲羅に「蓬莱山」と呼ばれる山を背負った巨大な亀であることから、蓬莱城ともいわれる。蓬莱山には、中国の神仙思想では、不老不死の仙人が住むと言われている。

 丸亀城の天守は、一国一城令により廃城になった後、正保年間(1648年〜1652年)に、”実質天守”「御三階櫓」として建造されたもので、全国に12か所しか残っていない、江戸時代またはそれ以前に建設され現代まで保存されている「現存十二天守」の一つで重要文化財に指定されている。

 高さは約14.5mと弘前城天守(高さ約14.4m)の次に低い三重天守となる。大手門と天守が両方とも現存しているのは丸亀城のほかは、弘前城と高知城のみである。丸亀城は、日本の歴史公園100選、日本100名城(78番)に選ばれている。高さは低いが、総高66メートルの亀山の総石垣の城の頂上に建てられていて、最上重の屋根には平側面(南北面)に入母屋屋根の妻側を向け、2重目の北面に向唐破風を一つ付けることによって、街中から見える姿は大きさを感じる。

 丸亀市街を城に向って歩いていき、大手門から城内に入ってからは、結構急な見返り坂を登っていくと、美しい高石垣(三の丸北石垣)などを経て、天守(山頂)に上がっていく過程が、実にお城を体感できるコースになっている。

天守前の筆者

大手二の門近くの濠から天守を見上げる

縦81cm、横93.7cm、高さ15cmの、檜材で精巧に造られた木型模型。江戸初期の寛文10年(1670年)、大手門を現在の位置に移すときに、幕府の許可を得るために、絵図とともに、幕府に提出されたものの控えとみられる。全国でも、数少ない貴重なもので、市の有形文化財に指定されている

城内の案内看板

天守、石垣は勿論、重要文化財の大手一の門は中まで見れて、丸亀城は見所一杯で歩くのが楽しい

 丸亀城には、本丸・二の丸・三の丸・帯曲輪・山下曲輪があり、東西約540m・南北約460mの内堀の内、204,756平方メートルが史跡範囲になる。丸亀城は慶長2年(1597年)から5年がかりで、生駒親正が、その子、一正と共に築いた。生駒正俊の代に、一国一城令により、いったん、廃城となったが、山﨑家治が寛永18年(1641年)、西讃に封じられ、城郭を再建した。山﨑氏が改易された後は、京極高和が万治元年(1658年)、城主となり、7代212年続いて、明治維新を迎えた。

 丸亀城は、現存十二天守の一つとして有名だが、「石の城」とも言われ、石垣の名城としても知られる。石垣は、主に、築城技術がもっとも発達した時期である山﨑氏の時に築かれた。石垣は、野面積み、打ち込みハギ、切り込みハギがそろい、「△」「田」などの刻印のある石、表面をノミで加工した石、石を割った矢穴の跡のある石を見ることもできる。

 反り返る石垣の曲線が扇を開いたような形状であることから「扇の勾配」と呼ばれ、三の丸の一番高いところで25mあり、平地から本丸に至る山全体が4段の高石垣で取り囲まれている。また、石垣の中央部や出入り口には防御のための出隅、入隅を設け、左袖や横矢掛りとしていて、実践的な意味だけでなく、石垣に変化を与えて美しいリズムとなっている。

■丸亀城を歩いてみよう

【高石垣(三の丸北石垣)】

 石垣の中でも、三の丸北石垣は有名だ。隅角部の石垣は算木積みで直方体の大きな石を角石に用いて大面と小面を交互に組み合わせ、小面の角石の横には角脇石を配して高く強固な石垣としている。丸亀城の高石垣は仰返しという技法で作られており、石垣下部は緩く、上に行くほど急勾配になる「扇の勾配」と呼ばれる美しい勾配で築かれている。

【天守】

  現存十二天守の一つ。重要文化財。四国で最も古い正保年間(1648年〜1652年)に完成したと考えられ、3重3階の天守になっている。亀山の山頂にあり、この本丸には、天守のほかに隅櫓、渡櫓があり、土塀が石垣上を巡っていたが、今はない。本丸中央部の地下16cmには安山岩の岩盤があり、元々の自然の岩山を利用して築城されたことが分かる。礎石、排水路は一部復元されている。

 丸亀城の天守は通し柱を使わず、各階に柱を建てることで、各階を下から順に狭めていく逓減率を大きくして、城下から天守を見たときに大きく見える工夫をしている。また、本来なら間口の広い東西方向に棟を設けるのが通常だが、南北に向けることで、三角の入母屋屋根を北側に見せており、これも大きく見せる工夫だ。

 天守の柱は一階50本、二階36本、三階16本で、用材は栂(つが)を主とし檜と松を混用している。各層は板張りになっていて、堅固な柱と階段で連結されている。

天守の外観、内観。筆者が写っている写真5枚目は最上階

大砲狭間。非常の際には打ち抜いて使用する

扇紋鬼瓦。山﨑家の時のもの

四つ目結紋鬼瓦。京極家のもの

丸亀城本丸からの眺め。一枚目は讃岐富士。二枚目は丸亀港

【大手二の門】

 大手の外門。高麗門形式をとり、瓦葺小屋根を配し開扉時の雨除けを意図している。門の左右の狭間塀は土塀で内外共に腰羽目を張り、その間に狭間を開く。

【大手一の門(太鼓門)】

 重要文化財。太鼓を楼上に備えて時報にしたことから太鼓門とも呼ばれる。構造は入母屋造、本瓦葺の櫓門形式。両端柱及び石垣添柱で大梁を受け総開放になっている。一の門、二の門はともに、主要部は欅材で、江戸時代前期の寛文10年(1670年)の建築。内部も見ることができる。

【見返り坂】

 大手一の門を潜って左に進むと、三の丸に登る坂「見返り坂」に差しかかる。斜度約10度の急勾配を持つ150mの坂道。坂は途中で右へ曲がり更に急勾配に。結構つらい坂だった。攻めるのには大変そう。

6枚目の写真は高浜虚子の句碑。昭和25年に市制50周年記念として建てられた。虚子が延寿閣にて、飯野山(讃岐富士)を望んでの即吟。「稲むしろあり 飯の山あり 昔今」

【三の丸東櫓台跡】

 三の丸東石垣は、石垣のふくらみや石材の割れなどが著しく、石垣の崩壊の危険性があったため、修理工事が行われた。山﨑時代の城郭絵図や京極時代の木図の形や寸法を基に復元されている。虚空に張り出したような展望台になっていて、素晴らしい丸亀市の眺望が楽しめる。

三枚目の写真に写っている山は左側が青ノ山、右側が讃岐富士。青ノ山は、讃岐平野を流れる土器川の東側にある、標高224mの山。「古墳の山」とも呼ばれ、多くの古墳や窯跡が見られ、山頂にある一号古墳(山頂古墳)の両袖形横穴式石室は、約1400年前のものとみられる。讃岐富士(飯野山)は、標高421.9mで、丸亀市・坂出市にまたがる

■お城概要

●住所
香川県丸亀市一番丁

●観覧時間(天守)
9:00〜16:30

●最終入場
16:00

●休館日
年中無休

●入城料(天守)
大人:200円/小人(小・中学生):100円
団体(20人以上):1人につき上記の金額の2割引の額
*以下のいずれかに該当する人は無料
・丸亀市に住所を有する65歳以上の人
・心身障がい者(児)とその介護者
それぞれ確認できるもの(手帳など)を提示

●公式サイト
https://www.city.marugame.lg.jp/site/castle/

●丸亀市観光協会公式サイトの丸亀城
https://www.love-marugame.jp/spot/295

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