戦国LOVEWalkerでお城&メタ散歩を楽しもう④

木下藤吉郎(豊臣秀吉)が殿(しんがり)を務めた世紀の撤退戦「金ヶ崎の退き口」の現場を巡ってきた

 2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公である豊臣秀長と豊臣秀吉の天下人兄弟と主君の織田信長の危機一髪と言えば「金ヶ崎の退き口」。2025年12月22日刊行の「戦国LOVEWalker2026」では、豊臣兄弟を中心に戦国の激動を紹介するが、この世紀の撤退戦の現場をめぐると、実際のヤバさが体感できる。 

 この戦いは元亀元年(1570)、越前国の金ヶ崎、現在の福井県敦賀市金ヶ崎町で、織田信長が率いる「織田軍」が、朝倉義景が率いる「朝倉軍」に猛攻を仕掛ける最中に、織田と同盟を組んでいた信長の妹、お市の方が嫁ぎ、信頼を寄せていた浅井長政が裏切った事で、一転、絶体絶命の撤退戦に変わった勝負だった。

 三方を山に囲まれ、もう一方は海と言う金ヶ崎の袋小路に追い詰められた織田信長は、死にものぐるいで退却を余儀なくされたが、殿を木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が務め、追い詰められた藤吉郎を退却中の徳川家康が救ったという話も伝わる(諸説あり)。明智光秀も殿にいたという話もあり、戦国の重要人物が勢ぞろいで危機を凌いだ退き口(退却戦)だった。

敦賀港に突き出した海抜86mの小高い丘(金ヶ崎山)に築かれた金ヶ崎城

豊臣兄弟がチャンスをつかんだ超危険なミッション

 敦賀市は福井県の南西部に位置し、嶺南エリアにある。越前の国の西端になり、信長が侵攻した朝倉氏の領国(越前)への主要な入り口にあたる木ノ芽峠からは嶺北エリアになる。古くは角鹿(つぬが)と呼ばれた。

 琵琶湖の湖北からは20キロぐらいと近く、北近江の浅井氏が攻めあがるには直近の場所だった。若狭湾沿岸の中でも、敦賀港は安土桃山時代以降、北前船などの拠点港として栄え、明治以降は開港場として外国に開かれ、旧ロシア帝国のウラジオストクとの間に定期船が開設され第一種重要港湾に指定された。

 金ヶ崎城は、敦賀港に突き出した海抜86mの小高い丘(金ヶ崎山)に築かれた山城で、治承・寿永の乱(平安時代末期。治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけての源平合戦)の時、平通盛が木曾義仲との戦いのためにここに城を築いたのが最初と伝えられる。

 現在でも月見御殿(本丸)跡、木戸跡、曲輪、堀切などが残り、1934年には国の史跡に指定されている。 戦国時代に入り、朝倉氏が越前を掌握した後は朝倉氏一族の敦賀郡司がここを守護していた。

 元亀元年(1570)4月26日、織田信長に攻め立てられ、郡司の朝倉景恒は金ヶ崎城を開城する。しかし、同盟者であった浅井長政の裏切りにより、織田信長は前方(北)に朝倉軍、後方(南)に浅井軍という、完全な「袋のネズミ」状態に陥った。

 信長が生き残る唯一の道は、全軍を一刻も早く京へ撤退させること。しかし、敵に背中を見せて逃げる撤退戦は、軍事行動の中で最も難しく、危険な戦い。ここで、追撃してくる敵の足止めを一手に引き受ける「殿(しんがり)」という、決死の任務を任されたのが木下藤吉郎(豊臣秀吉)だったと、後世の軍記物などで語られている。

  秀吉は当時、織田家中で確固たる地位を築いていたわけでは無かったが、多くの重臣たちが尻込みする中、最も危険な殿軍(でんぐん)に指名されたことが、運命を大きく変えた。秀吉に預けられた兵力は、わずか数百から千人程度だったと思われ、対する朝倉・浅井連合軍は数万の規模。秀吉の目的は「勝つこと」ではなく、「時間を稼ぐこと」だったのだろう。

 敵を引きつけては戦い、少しずつ下がる。この極限のストレス下での統率力が、本隊が逃げるための貴重な時間を生み出した、と思われる。弟・秀長(小一郎)もまた、この地獄の撤退戦に同行していた、と思われる。兄・秀吉の戦略に従い、兵士たちを動かし、最前線で戦線を維持するのに活躍したかもしれない。秀吉が戦略を構想し、秀長が裏で実務と調整をこなすという豊臣の黄金パターンが垣間見れたかもしれない。

 信長は秀吉ら殿の活躍により、近江朽木越えで京に撤退した。

山城の金ヶ崎城を登っていくと、浅井勢が迫る城下(現在の敦賀市)を見下ろせる

敦賀市街には北陸新幹線の終点として新たにできたJR敦賀駅が見える

金ヶ崎城の一番高いところには月見御殿があった

北側には敦賀湾が広がり、この城にいるとまさに逃げ場がない

金ヶ崎城から国吉城への決死の逃走劇

 秀吉たち殿軍が朝倉・浅井軍を振り切れたのは、国吉城の存在が大きかっただろう。国吉城は、現在の福井県美浜町佐柿にあった山城。

 若狭国の守護大名、武田氏重臣であった粟屋勝久が弘治2年(1556)に築いた、と言われ、若狭国と越前国の境を守備する「境目の城」だった。永禄6年(1563)には、越前国の朝倉氏が侵攻したが、勝久は、周辺の地侍や民衆と共に城に籠ってこれを撃退し、以降、朝倉氏が滅亡する天正元年(1573)まで、ほぼ毎年攻めかかる朝倉勢を撃退し続け、「難攻不落」を誇った。

 織田信長が越前攻めで国吉城に駐軍した際、長年にわたる勝久の戦いぶりを賞賛したと伝わる。金ヶ崎城を出た殿の木下藤吉郎にすれば、約10㎞ほど離れた国吉城まで逃げ込めば、朝倉軍の追撃を防げるわけで、必死の退却戦を戦ったわけだ。平成29年には、公益財団法人日本城郭協会が選定した『続日本100名城』にも選ばれている(No.139 佐柿国吉城)。

徳川家康の事績をまとめた「東遷基業」などによると、国吉城まで数㎞の佐田の海岸(福井県三方郡美浜町)で、金ヶ崎からいったん、丹生に逃げ、再び国吉城に向っていた木下藤吉郎が朝倉軍に追いつかれ激戦をしたといい、近くを退却していた徳川家康が助けたと言う

佐田の浜周辺の地図

国吉城の碑

『戦国LOVEWalker2026 ウォーカームック』

発行:株式会社角川アスキー総合研究所
発売:株式会社KADOKAWA
発売日:2025年12月22日
定価:1,760円 (本体1,600円+税)
ISBN:9784049112979
サイズ:A4判/100ページ
詳細・購入はAmazon

【目次】 千田嘉博先生インタビュー:「武将たちがあこがれた城」
特集:秀吉・秀長の城(長浜城、姫路城、郡山城、聚楽第、肥前名護屋城など)
特別企画:深掘り 大阪城ガイド
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大河ドラマ特集(主演インタビュー、ドラマ紹介、仲野大賀さんインタビュー)
戦国メタ散歩:金沢城、三方原の戦い、河越城の戦いなど

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