戦国LOVEWalkerでお城&メタ散歩を楽しもう⑩
明治の近代戦にも勝利した名城・熊本城。『戦国LOVEWalker2026』の主役豊臣兄弟の最強の配下、加藤清正が築城した
2026年01月14日 18時00分更新
株式会社角川アスキー総合研究所は、ウォーカームック『戦国LOVEWalker 2026』を2025年12月22日、刊行した。2022年12月に第1弾が出てから、年末の恒例ムックとして、第4弾となる。今回は大河ドラマ『豊臣兄弟!』の主役である、天下人になった豊臣秀吉と、秀吉を支えた弟の秀長にフォーカスして、二人の関わった城や歴史をフィーチャーしている。
大河ドラマでは、秀吉、秀長が偉くなっていくにつれて、兄弟を支える武将たちが次々と現れてくる。中でも、賤ケ岳七本槍の一人として名を馳せ、築城の名人としても知られた子飼い中の子飼い、加藤清正は重要人物。その彼が作り上げた名城、熊本城を紹介する。
平成28年(2016)の熊本地震で崩壊した石垣は50ヵ所、229面に及び、重要文化財建造物13棟や復元建造物などの被害も大きく、2022年11月の記者会見では、熊本市の大西一史市長は、完全復旧の見込みが当初予定の2037年から15年遅れ、2052年になる見込みであると発表している。
しかし、天守閣全体は一足早く復旧し、2021年6月28日から全面リニューアルした展示と、最上階からの展望も楽しめるようになった。『豊臣兄弟!』では、加藤清正は、伊藤絃(いとう げん)が演じる。彼にとって大河ドラマ初出演となる。
熊本城の大天守は関ヶ原の戦いの年に生まれたが、加藤清正は関ヶ原にいなかった。なぜか。
このエリアの城としては、古くは室町時代、肥後守護である菊池氏の一族、出田秀信が文明年間(1469年〜1487年)に千葉城を築いたとされるのが最初。出田氏が衰え、菊池氏は代わりに鹿子木親員(寂心)に隈本城(現在の古城町)を大永・享禄年間(1521年〜1531年)に築かせた。
その後、様々、城主は入れ替わるが、天正15年(1587)、豊臣秀吉が九州平定に乗り出し、佐々成政が肥後の領主となり隈本城に入った。しかし、秀吉の指示に反して検地を強行するなどして、肥後国人一揆が起き、翌天正16年(1588)、成政は秀吉に切腹を命じられ、代わって、加藤清正が肥後北半国の領主に任ぜられた。
天正16年(1588)、加藤清正は、肥後北半国19万5千石の領主として隈本城に入った。そして天正18年(1590)に隈本城の改修に着手、慶長4年(1599)には、茶臼山に新城(熊本城)の築城に着手したと思われる。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの頃に、大天守が完成。慶長12年(1607)に新城が完成し、隈本を熊本に改称した。
ところで、加藤清正はなぜ関ヶ原の戦いに東軍として参陣しなかったのか。遡ると、秀吉が慶長3年(1598)に死去すると、清正は徳川家康に接近し、家康の養女を継室として娶り、さらに、慶長4年(1599)に前田利家が死去すると、福島正則ら七将の一人として石田三成暗殺未遂事件を起こし、失敗するが、家康への接近を強めていた。
そこに大事件が起きた。慶長4年(1599)の庄内の乱である。場所は現在の宮崎県都城市あたりの日向国。島津氏と重臣である伊集院氏の争いで、五大老の家康が事態の調停に入っていたが、近隣の大名である清正が伊集院氏を支援していたことが発覚し、家康は激怒して、清正の上洛を禁じた。
清正は、慶長5年(1600)に大坂に入り釈明に努めたが家康は認めず、上杉討伐の会津征伐への参加を許さなかった。国元に留まるように命じられていたため、同年9月の関ヶ原の戦いの際も、清正は領国である肥後にいた。このころに、大天守が完成したのだ。
最終的には、疎遠になっていた清正が西軍につくことを恐れた家康が東軍への加勢を認め、黒田如水とともに、九州の西軍を打ち破り、西軍として敗れ斬首された小西行長の肥後南半を与えられ、肥後一国52万石の大名となった。
慶長8年(1603)には、肥後守に(従四位下)、慶長10年(1605)には侍従に叙任されており、翌々年の慶長12年に熊本城が完成したわけである。
清正は、熊本城の築城だけでなく、戦乱で荒れ果てていた肥後を立て直すために、治山治水工事や、水田の開発などに力を入れ、その工事の功績はたいへん大きく、現在でも現役で利用されているものがある。南蛮貿易に取り組むなど、領地経営を積極的に行ない、肥後が豊かになった事から、清正は領民から神様のように慕われ、今も「清正公(せいしょこ)さん」と親しみをもって呼ばれている。
熊本城は明治以降の近代戦を経験した唯一の城であり、落城することなく、難攻不落の堅城であるということを実証した
明治時代に入り、清正が心血を注いで築城した熊本城は、300年の時を超えてその防衛力の高さを、最初で最後の攻防戦で存分に発揮することになった。
西南戦争は明治10年(1877)2月に起きた日本国内で最後の内戦。西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱で、明治初期に起きた一連の士族反乱の中でも最大規模のものだった。熊本城は50日あまりにも及ぶ籠城戦の舞台になった。
開戦直前の2月19日の火災で天守などが燃え落ち、貯蔵されていた食料なども燃えてしまったが、2月21日、城下へ侵入した薩摩軍への熊本城鎮台側の砲撃から熊本城の戦いは始まった。
翌22日・23日は、薩摩軍による熊本城総攻撃が行なわれ、薩摩軍が大きな犠牲を出しながら段山の占領に成功、段山の山頂から猛射を浴びせて、鎮台側に多くの損害を出した。しかし、鎮台側は猛攻に耐え抜き、薩摩軍は城郭の一角にも取り付くことが出来なかった。
その後は、籠城戦になり、熊本城鎮台は、開戦前の出火で失った糧食の補充が充分でないため糧食不足に苦しんだが、包囲する薩摩軍も長期化する中、高瀬・山鹿・田原・植木などの北部の戦いが激化して、増援部隊を派遣したため減少し、少ない兵力で巨大な熊本城を全面包囲することに苦しみ、応援の政府軍(衝背軍)が4月14~15日に熊本城に入城したことで籠城が解かれた。
熊本鎮台司令長官の谷干城(たにたてき)率いる鎮台兵3300人は、薩摩軍13000人(多いときで)と戦い抜いて、熊本城は明治以降の近代戦を経験した唯一の城となり、落城することなく、難攻不落の堅城であるということを実証した訳だ。熊本城二の丸広場や高橋公園などで西南戦争にまつわる石碑や銅像を見ることができる。
挿絵「西郷隆盛とその将兵たち、西南戦争にて」 。フランスの新聞雑誌『ル・モンド・イリュストレ』1877年刊行号に掲載された速報記事の挿絵。パブリックドメイン。フランスの挿絵画家の手になるもので、西洋式の軍服を纏って椅子に腰掛ける中央の人物が、伝え聞きに基いて描かれたのであろう西郷隆盛。取り巻きがことごとく古風な重装備の武者姿なのは、フランス人の想像であろう
『戦国LOVEWalker2026 ウォーカームック』
発行:株式会社角川アスキー総合研究所
発売:株式会社KADOKAWA
発売日:2025年12月22日
定価:1,760円 (本体1,600円+税)
ISBN:9784049112979
サイズ:A4判/100ページ
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