戦国LOVEWalkerでお城&メタ散歩を楽しもう⑪

豊臣秀長の居城・郡山城。『戦国LOVEWalker2026』のメインテーマ『豊臣兄弟!』の主人公の名城を歩いてきた

 2022年に第1弾が出てから、年末の恒例ムックとして、第4弾となるウォーカームック『戦国LOVEWalker 2026』を2025年、刊行した。今回は大河ドラマ『豊臣兄弟!』の主役である、天下人になった豊臣秀吉と、秀吉を支えた弟の秀長にフォーカスして、二人の関わった城や歴史をフィーチャーしている。

 「郡山城」(奈良県大和郡山市)は、そんな豊臣兄弟の城の中でも、秀長にとっては特別な城だ。秀長が入城したのは天正13(1585)年9月3日。兄・秀吉とともに5,000人の将士を従えて郡山城に入城した。郡山城は豊臣政権による畿内統治の拠点の一つとして整備され、政治的意義も大いに飛躍した。

 秀長がつくった郡山城は、豊臣家滅亡後の幕藩体制下でも畿内統治の要所として引き継がれ、近代以降も都市の礎となり、今日の大和郡山市の土台となった。

 また、秀長が進めた郡山城下町の経済振興策は、住民による自治制度「箱本制度」へと昇華し、江戸時代を通じて受け継がれ、城下発展の基礎となった。

一段高い天守台と本丸

追手門と追手門櫓。1983年から1987年にかけて再建された

天守台下の筆者

郡山城跡公園周辺図

大坂城に次ぐ西日本最大の支城・郡山城は、大坂城の南東を守る「防衛ライン」の最重要地点、紀州征伐の拠点、四国進出の足掛かりの城であり、物資や情報の集積地として機能した

 現在、郡山城の東多聞櫓では、展覧会「秀長と郡山のあゆみ」(開催中~2027年1月31日)が開催されており、郡山城と秀長について貴重な展示がされているが、その展覧会図録を参照しながら、秀長の郡山入城と、その意味、当地の様子を振り返ってみよう。やっぱり、小一郎(秀長)はすごい。

展覧会「秀長と郡山のあゆみ」図録

 「秀吉兄弟上下五千程ニテ被入訖、両門跡三輩老若・堂方・衆徒・承仕・専當・仕丁・社家衆・神人衆•地下人并東大寺衆悉御迎二参向了、(以下略)」

 天正13年(1585年)9月3日、大和・紀伊・和泉を領有した羽柴秀長は、兄の秀吉とともに約5,000人の軍勢を率いて郡山城へ入城したが、この記述は、興福寺の塔頭である多聞院の僧・英俊による「多聞院日記」の一節である。

 大和に入った豊臣兄弟を、大和一国の寺社や民衆が総出で出迎えた様子を生々しく伝えている。 この年の7月に関白となった秀吉は、筒井順慶の跡を継いだ定次を伊賀国に国替えし、最も信頼を置く弟の秀長を郡山に配置したのだ。筒井氏は元来、大和国に土着した武士であり、興福寺の衆徒でもあった。そのため、秀長の郡山入城は、長年にわたり培われてきた大和の社会構造に対し、武家による本格的な政治介入の始まりを告げる、一大事だった。

 秀吉は関白就任後に朝廷から「豊臣」姓を賜り、その頃には「秀長」と名を改めていた弟にも「豊臣」姓を与えた。豊臣一門を中心とした本格的な政権運営に着手したわけで、実質的な政権ナンバー2となった秀長は、天正15年に従二位 権大納言に叙任され、以降「大和大納言」と呼ばれるようになった。

 郡山城は、秀長が大和・和泉・紀伊を治める領主として、入城した際、最初に行ったのが大規模な拡張だった。当時の大和国は寺社勢力(興福寺など)が強く、一筋縄ではいかない土地柄であり、巨大な石垣や堀を備えた近世城郭を築くことで、古い寺社勢力に対し「新しい支配者」の力を視覚的に示した訳だ。大坂城に次ぐ、西日本最大の支城としての意味は大きかった。

 郡山城は、秀吉がいる大坂城の南東を守る「防衛ライン」の最重要地点でもあり、紀州征伐の拠点となり、さらには西国大名たちの動きを監視する役割を担い、四国進出の足掛かりにもなる城であり、和泉・紀伊を含めた広大な領地の中央に位置して、物資や情報の集積地として機能した。

郡山城内に敷設された昔の絵図。「郡山城は西ノ京丘陵の南端部に築かれた平山城である。内堀、中堀、外堀の三重の堀に囲まれた惣構えの構造をもつ。城の中心部とその北・西・南側が丘陵地に当たり、武家屋敷地となる。一方、南東側の平地には町人地を配する。こうした江戸時代に計画的に作られた道路網や町割、敷地割は現在もよく残されている。上の絵図は幕府の命令により正保年間(1644~1647)に作成されたもので、江戸時代前期、本多政勝が藩主だったころの城の縄張りを正確に描いている。堀・土居・道・水路などを色分けして描き、町家・侍町を区別する。城の中心部の表現は細かく、櫓・門などを詳細に描くが、名称は記載されない」(和州郡山城絵図国立公文書館所蔵)

今に残る本丸の威容

 秀長は、郡山に入った翌月には、奈良での商売を禁止して、郡山でのみ許可している。天正15年(1587年) には、公事座(くじざ。寺社に税をおさめて商業の独占を認められた組合)を廃止している。いわゆる「楽座」の政策で、自由経済を振興することで、奈良の既得権益に大きな打撃を与えた。

 城下町の整備も進んだ。天正16年の「郡山惣町分日記」は、郡山町中から秀長に支払われた金銭の内訳で、ここには本町をはじめ、後に確立する「箱本制度」の主体となった「箱本十三町」が列記されており、秀長の頃にこれらの町が整備されたことがわかる。この郡山が支払った金銭は、秀長が郡山に貸し付けた金の利息と考えられている。貸し付けは利子徴収の施策と捉えられがちだが、町への融資という側面もあり、郡山では経済振興策の一環だったのかもしれない。

 郡山城下の振興政策は、秀長が亡くなった後も受け継がれた。郡山城下は様々な特権を有するようになり、代わりに伝馬や治安、防火の役務を負担した。これらの特権を記した文書を収めた箱を各町が一月交代で持ち回り、当番である「箱本」が町のことを取り仕切る仕組みが「箱本制度」になる。この仕組みは、豊臣家が滅亡した後も、江戸時代を通じて継続発展していく。秀長が基礎をつくった城下町や様々な政策は、その後の郡山の発展の礎となったのだ。

 郡山城の歴史を振り返ると、応保2年(1162年)の『東南院文章』に「郡山者件狼唳之輩張雁陣之城」と出てくる。「狼唳之輩」とは郡山衆を指しており、雁陣の城を築いていると記載されている。おそらく、中世の環濠集落のようなものだったのだろう。

 その後は、戦国期に、筒井氏と松永久秀による熾烈な大和支配争いの拠点となり、天正8年(1580年)、織田信長により筒井順慶の大和国支配が認められ、本格的な改修を開始し居城とした。その後、豊臣秀長の大改修を経て、秀長の死後は、大坂夏の陣での落城を経て、江戸期は柳澤氏が幕末まで統治した。

 現在は、1980年代の追手門や櫓の木造復元、2017年の天守台整備、2021年の極楽橋再建により往時の威容を回復。2022年には国の史跡に指定された。日本さくら名所100選としても知られる。

 以下は現在見ることが可能な遺構について。

●天守台

 2013年からの調査で、天守の柱を支える礎石が良好な状態で確認された。これにより、豊臣秀長(あるいは、秀保、増田長盛)の時代には、間違いなく天守が存在したことが科学的に証明された。大坂城のような巨大な5層構造ではなく、石垣の規模に見合った3層程度の重厚な天守だったのではないかと推測される。

 長らく崩落の危険から立ち入り禁止だった天守台だが、2017年に整備が完了し入れるようになった。石垣を修復した上で、天守台の上に展望デッキが設置された。

 天守台の標高は81メートル、城下町地帯の標高は53メートル、比高28メートルであるが、四周に比較的眺望がきく立地をとっていて、秀長が整備した城下町や奈良盆地を一望でき、遠くには薬師寺の塔や若草山も望める。

なかでも東方への展望が開け、大和東山の連山が一望できる。平城京跡はもちろんのこと、南都の諸寺や奈良町、天理~桜井の龍王山、三輪山も望める。南方では、大和三山も視野に入り、空気が澄んでいれば北方に比叡山を見る事も出来る。

手前には、内堀、毘沙門曲輪、再建された追手門、追手向櫓、追手東隅櫓が見え、城址会館は明治41年に県庁前に建てられた奈良県立図書館である。昭和43年(1968年)に移築された。

天守台

天守台を上がった展望スペース

天守台の礎石

天守台の展望台からの眺め

 天守台の有名な遺構としては「転用石」が挙げられる。石垣の一部として埋め込まれたもので、奈良一帯から石材を集めた際、石仏や地蔵も徴発された。天守台の北側石垣には、逆さまに積まれたお地蔵様(逆さ地蔵)が今も露出しており、参拝する人が絶えない。

●追手門と追手向櫓

 追手門(梅林門)は昭和58年(1983年)に再建され往時の威容を取り戻した。木造・櫓門形式。追手向櫓は昭和59年(1984年)に再建された。木造・二層二階。

追手向櫓

追手門(梅林門)

●極楽橋

 極楽橋は、本丸と毘沙門曲輪を結ぶ、かつての登城ルートにおける象徴的な架け橋。2021年に再建された。木造(伝統工法)。長さ約22.12m、幅約5.4m。主に国産のヒノキやマツが使用されている。豊臣秀長が城主だった時代から存在していたとされ、藩主や限られた賓客が本丸へと向かう際に渡る「正式なルート」の一部だった。1585年の入城の際、秀長が兄・秀吉と共にこの道を通った可能性もあり、兄弟の絆や豊臣政権の威光を象徴する場所でもある。橋の欄干には、江戸時代の元和5年(1619年)の銘が入った擬宝珠が残っており、再建に際してはその意匠を参考に製作された。

●東多聞櫓と追手東隅櫓

 東多聞櫓は細長い平櫓で、現在はギャラリーとして活用されている。東多聞櫓は、1980年代に進められた「追手門周辺整備事業」の中で再建され、昭和59年(1984年)に再建完了した。木造平屋建て、多聞櫓形式(城壁の上に建つ長屋状の櫓)。復元された東多聞櫓の内部は、単なる展示物ではなく、歴史を伝える拠点として活用されている。

 「多聞櫓」とはもともと、松永久秀が多聞山城で初めて築いたとされる形式。秀長にとっての多聞櫓は、軍事的な「壁」であると同時に、統治者の威厳を城下に示す「装飾」でもあった。

追手東隅櫓

東多聞櫓と追手東隅櫓。すぐ横を近鉄橿原線が走る

展覧会「秀長と郡山のあゆみ」

 東多聞櫓のギャラリーでは、郡山城から出土した資料を通じて城の実態と秀長の足跡を辿る展示を開催している。あわせて、城やその周辺で出土した各時代の資料から地域の歩みを振り返ることで、秀長がなぜこの地を拠点としたのか、郡山に何を遺したのかを検証する。

大和郡山市提供。天守の金箔瓦。天守台周辺の発掘調査(2013年〜2017年)において、「菊紋」が施された金箔瓦の破片が出土した。金箔瓦は、本来は織田信長が安土城で始め、その後は豊臣秀吉が自身の権威の象徴として大坂城や聚楽第で独占的に使用したもの。秀長が居城に金箔瓦を葺くことを許されていた事実は、彼が「豊臣政権のナンバー2」として秀吉と同等の権威を分け与えられていた証拠とも考えられる

【開催概要】

開催期間

開催中〜2027年1月31日

*会期中は原則的に無休で開館(2026年12月28日~2027年1月4日、「大河ドラマ館」の休館日は休館)

開催時間

午前10時〜午後5時(最終受付午後4時半 )

入館料

一般 300円

*中学生以下、市内在住または市内に所在する高校に通学する高校生、障害者手帳を所持している人(介助者1名を含む)は無料

公式サイト

https://www.city.yamatokoriyama.lg.jp/soshiki/machidukuri_senryaku/rekishi_bunkazai/7/16994.html

●大納言塚

  豊臣秀長の墓所。天正19年(1591年)1月22日、郡山城内で没した秀長(享年51歳)は、ここに葬られた。当初、今の芦ヶ池近くに豊臣秀吉が菩提寺大光院を建立し、院主に京都大徳寺の古渓和尚を当てて墓地の管理と菩提を弔った。

 豊臣家が滅んだあと、大光院は藤堂高虎によって大徳寺の塔頭として京都に移築され、秀長の位牌は東光寺(のちの春岳院)に託された。その後墓地は荒廃したが、安永6年(1777年)、位牌菩提寺春岳院の僧、栄隆や訓祥が郡山町中の協力を得て、外廻りの土塀をつくり、五輪塔を建立した。五輪塔は高さ約2メートル。

 大納言塚は、郡山城から見て南西の方向に位置する(奈良県大和郡山市箕山町)かつて「野毛山」と呼ばれた丘陵地で、当時は郡山城の城下からすぐに見上げるような場所にあった。現在は静かな住宅街になっており、緑に囲まれた一角として保存されている。

写真)写真③GHIJKL

■郡山城概要

所在地

奈良県大和郡山市城内町

定休日

なし

時間

終日

観覧料

無料

アクセス

近鉄近鉄郡山駅から徒歩7分、JR郡山駅から徒歩15分

駐車場

無し。近隣に有料の三の丸駐車場有り

Webサイト

https://www.yk-kankou.jp/spotDetail1.html(郡山城)

https://www.yk-kankou.jp/spotDetail12.html(大納言塚)

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