第6回では、神田上水(神田川)の水量を補うため、玉川上水から神田上水に向けて掘られた助水堀(じょすいぼり)をご紹介しました。助水堀は淀橋付近で神田上水に合流しました。今回は、この地域の地名としても知られた「淀橋」についてご紹介します。
※過去の連載記事はこちら:西新宿の今昔物語~新都心歴史さんぽ~
江戸時代から知られた淀橋
淀橋は、新宿区と中野区の境の神田川に架かる青梅街道上の橋です。江戸時代から知られており、天和2年(1682)発行の戸田茂睡(とだもすい)著の地誌『紫の一本』(むらさきのひともと)には淀橋の名が出てきます。また、この連載ではお馴染みの『江戸名所図会』(天保5年(1834)及び7年(1836)発行)でも淀橋の水車が挿絵入りで紹介されています。
淀橋の名は橋名にとどまらず、広くこの一帯の地名としても使われました。その変遷をたどると、江戸時代末に柏木村の字(あざ)淀橋町、明治22年(1889)5月に東京府南豊島郡淀橋町、昭和7年(1932)10月に東京市淀橋区となっています。昭和22年(1947)3月15日に四谷・牛込・淀橋の三区が合併して新宿区となった後も、昭和45年(1970)4月1日まで淀橋の町名は残っていました(現在の西新宿2丁目と4~6丁目の一部)。
現在は、わずかに新宿区立淀橋第四小学校や東京都中央卸売市場淀橋市場、昭和24年(1967)にこの地で淀橋写真商会として設立したヨドバシカメラ等にその名をとどめています。
現在の淀橋
現在の淀橋は、平成17年(2005)2月に青梅街道と職安通り(都道新宿両国線支線)の接続に伴う一帯の整備工事の際に架け替えられたものですが、橋の親柱(おやばしら)は大正時代のものを再利用しており、大正13年(1924)12月と大正14年(1925)7月という年記が刻まれています。この大正時代に架けられた鉄筋コンクリート製の橋が、長らく平成の世まで使われていました。この橋は、中野に住む浅田政吉らの寄附によってできました。浅田政吉のことは、このあと「姿見ずの橋」の話の中でもご紹介します。
淀橋の由来
淀橋の名前の由来については、いくつかの説があります。
①平安時代中期の承平年間(931~938)に、源順(みなもとのしたごう)が編纂した『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)に、武蔵国豊島郡の郷名として「余戸」という名が記されており、これが転じて「淀」となり、橋名にもなったという説。これは、この辺りが豊島郡と多摩郡の中間にあたり、古代の制度で五十戸を単位とした「里」を超えた端数である「余戸」にあたる家を移住させたことに起源があるとされています。
②この橋が、柏木村・角筈村・中野村・本郷村の四つの村の境が集まる場所に架けられたので「四所橋」と呼ばれ、これが転じて「淀橋」になったという説。
③寛永年間(1624~1644)に三代将軍徳川家光がこの辺りに鷹狩りに来た時、山城国(現在の京都府)の淀の景色に似ているので「淀橋」と呼ぶよう命じたという説(後述の「姿見ずの橋の伝説」参照)。家光の命名の理由については、水車のある風景が京・大阪の淀川の風景に似ていたからとか、川の水勢がゆるやかで川面が淀んで見えたからという説もあります。江戸時代には京阪の名所の名を江戸やその近郊の地名などにつけることが流行っていたので、このような話ができたのでしょう。
中野長者伝説と淀橋
淀橋には、橋にちなんだ伝説がいくつかあります。
淀橋は、昔「姿見ずの橋」と呼ばれたことがありました。そのいわれは室町時代の初め、十二社熊野神社を勧請(かんじょう)した中野長者鈴木九郎に関わる伝説によるものです。紀伊国(現在の和歌山県)から流れ、中野あたりにたどり着いた九郎は、周辺の開拓で成した財宝を隠すため、下男に背負わせてこの橋を渡り、森の中に埋めて隠しました。九郎は帰り道、隠し場所を知る下男を殺して神田川に投げ込んだそうです。こうして九郎に同行する下男が決まって姿を消すので、淀橋はいつしか「姿見ずの橋」と呼ばれるようになったと伝えられています。
その後、九郎の一人娘の婚礼の夕のこと。犬の遠吠えが続いたと思うとにわかに空がかき曇り、雷鳴がとどろきました。すると娘は一匹の蛇に化け、十二社の池におどり込んでしまったそうです。九郎は、罪のない下男たちを殺した報いに恐懼(きょうく)し、名僧として知られた舂屋宗能禅師(しょうおくそうのうぜんじ)に罪を告白し、懺悔(ざんげ)しました。禅師は十二社の池のほとりで読経し、経巻を池に投げ込みました。すると娘は元の姿に戻り、天に昇ることができたと伝えられています。
罪を悔い改めた九郎は剃髪(ていはつ)して正蓮(しょうれん)と号し、土中に埋めた財宝をもとにして自邸を寺院としました。これが現在、鈴木九郎の墓所がある中野坂上の多宝山成願寺(たほうざんじょうがんじ)だということです。
江戸時代の初め、三代将軍徳川家光は鷹狩りの帰りに十二社熊野神社に詣でた際、この中野長者にまつわる話を聞き、「姿見ずの橋」は不吉な名前だから以後「淀橋」と改めよと命じたといわれています。
昔は「姿見ずの橋」の伝説のために、この土地の人々は婚礼の際に淀橋を渡らないという風習がありました。大正時代に淀橋の架け替えに尽力した浅田政吉は、本家の婚礼の際に橋のたもとに祭壇を設けてお祓いをし、自ら渡り初めをしました。それ以降、花嫁一行もこの橋を渡るようになったと伝えられます。
淀橋にまつわる事件
淀橋の水車と、江戸時代末に起きた爆発事件のことは、前回ご紹介しました。この橋の際にあった久兵衛という者が持つ水車小屋で、幕府から命じられた火薬製造を行いましたが、技術が未熟なため嘉永7年(1854)6月に大爆発が起こり、付近の家屋などに大きな被害が出て、火薬の製造は中止となったという話です。
『江戸名所図会』の挿絵「淀橋水車」を見ると、画面中央を左右に青梅街道が描かれており、左手に神田川に架かる淀橋が見えます。
青梅街道は、慶長11年(1606)に江戸城築城のため、青梅の成木村(なりきむら)で採れる石灰(城や武家屋敷、寺院の白壁に使う漆喰(しっくい)の原材料)を運搬する道路として開通したもので、当時は成木往還(なりきおうかん)と呼ばれていました。挿絵では、街道の両側に建ち並ぶ茅葺屋根(かやぶきやね)の民家があり、いずれも旅人が利用している様子が描かれています。これは成子宿(なるこじゅく)で、江戸郊外の名所として知られた中野の宝仙寺や堀ノ内の妙法寺などへの参詣客が休息や食事に利用しました。
明治3年(1870)1月20日、明治政府の新税制に反対した小金井界隈の農民が蜂起し、当時の品川県庁(現在の新宿・渋谷・目黒・大田・世田谷・中野・杉並・練馬区及び多摩や埼玉・神奈川県の一部を管轄した。県庁は現在の中央区日本橋浜町にあった)に向かいました。その時、淀橋の上に梯子をたくさん組んで農民たちを阻止しました。別動隊が小滝橋や高田馬場方面から進出したので結局無駄になりましたが、こうした東京近郊の大規模な一揆は珍しく、淀橋がその防衛線になったことは注目されます。
協力・写真提供/新宿区文化観光産業部文化観光課
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