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江戸時代の紀行文に記された保土ケ谷宿~旅籠屋(はたごや)が軒を連ね、名所へ向かう旅人が宿をとる繁昌(はんじょう)のまち 保土ケ谷区~

 横浜市域には、江戸時代、東海道の宿場があり、旅人たちで賑わいました。

 横浜旧東海道コラムの第2弾として、今回は保土ケ谷区にゆかりの深い、東海道保土ケ谷宿と権太坂を紹介します!

前回の記事はこちら
東海道神奈川宿の人々と外国人 開港直後の異文化交流!?

知って楽しい! 横浜旧東海道おもしろ小噺
 横浜には江戸時代、3つの宿場「神奈川宿」「保土ケ谷宿」「戸塚宿」があり、多くの旅人でにぎわいました。旧東海道沿いには、今も神社仏閣や建物などの数多くの歴史資産が残されています。この連載では、横浜旧東海道の歴史にまつわるエピソードや見どころをご紹介していきます!

 江戸時代の保土ケ谷宿といえば、どんなイメージが思い浮かびますか?

 広重などが浮世絵に描いた帷子橋(かたびらばし)と帷子川、今も残る本陣跡や旅籠屋跡、金沢や杉田方面への分岐点(現在も金沢横丁の石碑(道標)がありますね!)、さらには箱根駅伝で知られる権太坂などが思い浮んでくるかもしれません。

 それでは、江戸時代の保土ケ谷宿について、実際に保土ケ谷宿を訪れた当時の旅人たちの印象を、紀行文などから探っていこうと思います。

東海道五拾三次之内 保土ケ谷 新町橋(保永堂版)

広重(初代)画
天保4~5年(1833~34)
横浜市歴史博物館所蔵
 保土ケ谷宿といえば、この浮世絵を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。ここに描かれた帷子橋は、現在の天王町駅前に位置していました。天王町駅前の公園は、橋を模したしつらえになっていて、渡りながら当時をしのぶこともできます。

保土ケ谷宿は「繁昌の地」!

 江戸時代後期に刊行された、江戸とその近郊の挿絵つきの地誌「江戸名所図会」では、保土ケ谷宿は「駅亭軒を連ね、繁昌の地たり」と紹介されています。駅亭とは旅籠屋=宿屋のこと。保土ケ谷宿が宿場町として繁栄していたことを示しています。江戸時代の旅人は、男性で1日10里(約40㎞)ほど歩いたといわれ、江戸日本橋から10里半(約42㎞)に位置する戸塚宿が1泊目、となりますが、実は保土ケ谷宿に宿泊する旅人も多かったようです。江戸時代後期の保土ケ谷宿は、家数558軒、人口2928人、旅籠屋は67軒でした。一方、隣の神奈川宿は、家数と人口は1341軒、5793人と多いものの、旅籠屋は58軒。実は保土ケ谷宿の方が、人口の多い神奈川宿より旅籠屋が多かったのです。

 江戸近郊の紀行文を数多く著した竹村立義という人物も、文政8年(1825)に杉田・金沢を訪れた際に保土ケ谷宿の「石田屋」という旅籠に宿泊し、座敷や食事が大変よかったと述べています(「杉田図会」)。

 また、江戸時代中・後期の戯作者、狂歌師として知られる太田南畝も、享和元年(1801)に江戸から大坂に向かう際に保土ケ谷宿の「沢潟(おもだか)屋」という旅籠屋に1泊しました。この時の紀行文「改元紀行」には、次のように記されています。

沢潟屋彦右衛門という宿に着く。酉の時(18時ごろ)近くである。床の間に掛かる画に狂歌が書かれていた。
  くたびれて やうゝゝ足も おもたかや よい程がやの 宿をとりけり
作者はどのような人物だろうと面白く思った。(口語訳)

 ちなみに狂歌は、「足が重い」と「沢潟屋」、「よい程」と「保土ケ谷」がそれぞれ掛詞になっています。

 弥次さん喜多さんで知られる十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の「東海道中膝栗毛」では、「おとまりは よい程谷と とめ女 戸塚前ては はなさざりけり」と、旅人をつかまえて(「戸塚前」と「とっつかまえる」が掛かっている)離さない、旅籠屋の客引きの女性の様子が詠まれています。強引な客引きを詠んだ狂歌ですが、単に面白おかしいだけではなく、背景に、保土ケ谷宿の賑わいも感じられるような気がします。

『江戸名所図会』巻二より 帷子川

天保5~7年(1834~36)
斎藤幸雄・幸孝・幸成(月岑)
長谷川雪旦画
横浜市歴史博物館所蔵
 保永堂版などと同じく帷子川と帷子橋を描いていますが、多くの人々が行き交い、まさに「繫昌の地」といった風景です。

松と富士山の権太坂

 旧東海道の権太坂は、駅伝で走る新道よりも、少し北に位置します。権太坂といえば、現在も難所というイメージが強いですが、江戸時代の旅人はどのように紹介していたのでしょうか。

東海道名所之内 権太坂(御上洛東海道)

周麿(河鍋暁斎)画
文久3年(1863)
横浜市歴史博物館所蔵
 将軍徳川家茂の文久3年の上洛を題材とした東海道シリーズのうち、権太坂を描いた作品です。背景に描かれた坂が権太坂。道の周囲に松の木が生い茂っています。

程ヶ谷

北斎画
横浜市歴史博物館所蔵
 タイトルは「程ヶ谷」ですが、松並木と富士山の風景から、権太坂あたりを描いたものかもしれません。

 江戸時代後期の戯作者、平亭銀鶏(へいていぎんけい)撰の案内記「江の島まうで(詣で)浜のさゞ波」では、権太坂について「此坂いたって長し」と記されています。難所は難所でも、傾斜ではなく、その距離に注目しているわけです。確かに、現在でも旧道を歩くと、登りの距離の長さを実感します。

 一方、前出の「杉田図会」や「改元紀行」では、それぞれ「道広く路傍古松多し」、「権太坂といふ松の森あり」と、地形以外にも注目しています。江戸時代の権太坂は、路傍や周囲に松の木が生い茂る風景が広がっていたようです。

 さらに、下田奉行小笠原長保が、文政7年(1824)に伊豆半島や三浦半島を巡検した時の紀行日記「甲申旅日記」では、権太坂からの「不二(富士)の眺望ことによろし」と述べられており、富士山が望めるビュースポットだったこともわかります。

 江戸から権太坂に差しかかるまでの東海道は、おもに海際の平地を通っていました。江戸からやってきた旅人にとっては、ここではじめて海辺から内陸の丘の道に入っていくことになります。権太坂は、上り坂が長く続く難所ではありましたが、一方で旅人たちは、松の木々や高所からの富士山の眺めなど、これまでとは違った風景を楽しんだのではないでしょうか。

五十三次名所図会 五 程ヶ谷 境木立場 鎌倉山遠望(竪絵東海道)

広重(初代)画
安政2年(1855)
横浜市歴史博物館所蔵
 権太坂を登り切った先にある境木立場には茶屋が軒を連ね、旅人たちは一息つきました。この場所も、高台から周囲の風景を一望できるビュースポットでした。

 旧東海道の保土ケ谷宿や権太坂は、現在でも道筋を辿ることができます。江戸時代の旅人や、当時の保土ケ谷宿の賑わいに思いを馳せながら、散策してみてはいかがでしょうか。

※年月日は和暦を用いています。

 次回は、戸塚宿をご紹介する予定です。お楽しみに!

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文=小林紀子(横浜市歴史博物館学芸員)

プロフィール
 栃木県生まれ。2003年に横浜市歴史博物館に就職。専門は日本近世史。これまで「横浜の神代神楽」「黒船・開国・社会騒乱」「生麦事件と横浜の村々」「佐久間象山と横浜」「戊辰の横浜」「横浜の大名 米倉家の幕末・明治」などの企画展を担当。好きなものはペンギンと地ビール。

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