渋沢栄一もバックアップ!「大人の社交場」を目指して100年、歴史に翻弄されながらも再びトップランナーとして走り続ける東京會舘の星野さんに会ってみた【#1―成り立ちと歴史】
2024年10月18日 12時00分更新
丸の内LOVEWalker総編集長の玉置泰紀が、丸の内エリアのキーパーソンに丸の内という地への思い、今そこで実現しようとしていること、それらを通じて得た貴重なエピソードなどを聞いていく本連載。第17回のキーパーソンは、丸の内で100年以上の歴史を誇る「東京會舘」で常務取締役を務める星野昌宏さん。歴史的なエピソードや2回の建て替え、3度の危機、変わらない魅力と変えたことでの飛躍、歴史に翻弄されたからこそ生まれた伝統料理や名物カクテル、これからの挑戦などについてお話をうかがった。
国際情勢的に大人数で集まれる
ホールが必要だった
――星野さんから見た東京會舘の歴史について教えてください
星野「設立の主旨には、大きく3つの側面がありました。1つ目は当時の国際情勢です。1920年に設立の総会が行われて22年に最初の建物がオープンしました。歴史的な流れでいくと、ちょうど1904年の日露戦争で事実上の戦勝国になった後。諸説ありますが、当時の東京にはいわゆるバンケットを中心とした貴賓館といいますか、オフィシャルの大型パーティーができるような場所がなかったので、世界に誇れる社交場みたいなものをいろいろな方が構想していたらしいんですね」
――東京會舘にそういうイメージは全然なかったですね
星野「この建物を建てたときには当時の東京商業会議所(東商)の藤山雷太会頭が、資金面で大きなバックアップをしていますが、東商を作った渋沢栄一の関連企業も弊社にたくさん出資をしてくださっています。過去の文献などで見ると、東京會舘設立のこけら落としのパーティーで祝辞を述べた渋沢も、帝国劇場を作ったあたりから大人数が集まれる社交場を東京のどこかにという構想はおっしゃっていました」
帝国劇場に関わる人々の野心的なチャレンジ。
2人のキーパーソンとサヴォイホテルの衝撃
星野「2つ目は、帝国劇場とそれに関連する人たちの野心的なチャレンジという側面です。キーパーソンになる方がもう2人いらして、その1人が帝国劇場専務の山本久三郎。帝国劇場は国の観賞劇場として作られましたが、レストランが3つしかなかったのでお客様に十分なサービスが提供できない。
その頃、山本は欧州視察に行ったイギリスのサヴォイホテル(現ザ・サヴォイ)に衝撃を受けたそうなんです。隣の劇場と地下の通路で繋がっていて、観劇が終わった方々が地下の通路を伝ってホテルで社交を温める。この形のホテルを日本にも作ることができれば、レストランが3つしかなくて行き場所がないという課題を解決できます。 旧来の日本人の社交場は料亭の個室や船宿で、どんちゃん騒ぎをしていましたが、文明開化以降はバーの片隅のソファー席で少人数で語り合う社交スタイルがメインになります。やっと列強の一国になろうとしているときに、仲間内だけで楽しむ島国精神のような社交スタイルを文化人たちがすごく嫌がっていた。そんなときにこの素敵な建物のアイディアを山本が持って帰ってきたというわけです。
2人目のキーパーソンが伊藤耕之進。レストランの三田東洋軒を創業した、当時の名うての料理家でありレストランプロデューサーです。三田で料理店を創業して食材にお金をかけすぎて潰れそうになっていたのが、いつも軒先を綺麗に掃除しているこの行き届いたレストランを経営している人間は誰だ、と桂太郎に見出されました。料理がうまいと口コミで広がって、貴族院の議員さんを中心としたごひいき筋ができて、その後、伊藤博文に勧められて三田東洋軒を出すに至りました。その後、伊藤はあらゆる建物の中に入る高級レストランの受託みたいなことをやっていました」
――桂太郎というと、後の総理大臣ですね。伊藤さんはレストランプロデューサーの先駆けだった
星野「そんな中で帝国劇場に入ったレストランのうちの1つが東洋軒だったそうなんです。伊藤は山本からサヴォイホテルの話を聞き、“大型の会場で大人数の方に料理を提供する”というスタイルを考えました。宴会料理のスタイルを1つの付加価値にして、“自身のプロデューサーとしての地位や東洋軒をさらに引き上げたい”という伊藤の野望みたいなものが東京會舘に込められていたのではないか、と思います」
資金源は東京商工会議所の渋沢栄一と
藤山雷太のバックアップ
星野「3つ目は東京商工会議所ですよね。渋沢もバックアップしてくれたようですが資金が足りず、財界で最も人望があった方の1人、藤山雷太にこの話を持っていきました。すると藤山は面白そうだからと発起人に名を連ね、ありとあらゆるところに声をかけてくれた。藤山はとてもユニークな方で、挑戦を恐れない。とにかく非常に柔軟な発想の持ち主で、人の話をよく聞くし人心掌握に長けていたんです」
――本当に公が作ったんじゃなくて民間が作ったんですね
星野「もちろんそこには立地上、公の力もある程度あったかもしれませんが、この会社の一番初めの理念に『民間の力による大人の社交場』というのがあるんですよ。ベンチャースピリットじゃないですけれど、日本がどんどん伸びていた時代だから、キーパーソンが海外で学んできたことを形にしたのではないかと思います」
――日本のそういうマーケットや社交場のあり方が変わる1つの重要な歴史的なポイントだったのかもしれない
會舘というネーミングと
幻のパレスホテル構想
――東京會舘はなぜホテルではなく“会館”なんですか?
星野「正式な書類が残っているわけではありませんが、1920年の設立の総会で満場一致で可決されたという記録が残されているんです。おそらく“たくさんの人が集う場所”というユーモアを込めたんじゃないかと思いますね」
――新語とまでは言わないですけど、新しく生まれてきたコンセプトだった
星野「そうでしょうね。実は、当時サヴォイホテルをモデルにしていたので、最上階は宿泊棟になるはずだったんです。皇居を見下ろすところにある客室に“パレスホテル”という名前を付けていました。
でもその“パレスホテル”は開業時、宴会場や倉庫になっていました。宿泊業の許可が最後まで下りなかったんです。諸説ありますが、帝国ホテルですら目の前が日比谷公園なのに、ここは真正面が皇居なので、当時の国家元首である天皇陛下への様々な配慮とか思惑が作用したのではないかと思います」
――現在のパレスホテルの前に“パレスホテル”って名前があったってことですね
星野「そうなんです。1964年の東京オリンピックの際には、要人が泊まれるホテルが足りないから帝国ホテルと東京會舘はホテルを作るようにと指示が出ました。パレスホテルは、その時に私どもの経営陣が作ったホテルです。一方で帝国ホテル設立メンバーの1人だった大倉喜八郎氏の長男で、帝国ホテルの会長を務めていた喜七郎氏が立ち上げたのがホテルオークラです。
帝国ホテルは、関東大震災で被災をした東京會舘を運営していた時代もあります。それを鑑みると4つとも親戚ということですね」
――いやぁ、そういうことなんですね! しかも4つともすべてブランドが健全というか、むしろ今また力を出しつつあるっていうのがとても素晴らしい
星野「4つとも持っているカルチャーが違うということが、しっかり1つのユニークネスになっているんじゃないかなと思います」
大人の社交場を目指して民間の力で作られた東京會舘。#2では、マッカーサーが好んで飲んだというカクテル「會舘風ジンフィズ」や、エリザベス女王陛下に提供した料理「プリンスアルベール」など、さまざまなメニューの誕生秘話について尋ねた。
星野昌宏(ほしの・まさひろ)●1976年生まれ。一橋大学法学部私法課程 卒。博報堂を経てローランド・ベルガーをはじめとした複数の外資系戦略コンサルティングファームに所属し、金融・建設・運輸・消費財・エネルギー等の幅広い業界において、全社戦略、企業再生、ビジネス DD、M&A、PMI、法人営業改革、オペレーション改善等のプロジェクトに従事した後、事業会社に転身。ベクトル(経営企画部長)、ポジティブドリームパーソンズ(取締役 CFO)、投資ファンド:アドバンテッジパートナーズの投資先である株式会社エポック・ジャパン(現:株式会社きずなホールディングス:取締役 CFO 兼 マーケティング本部長)を経て、2017年10月に東京會舘に入社し、18 年 6 月、取締役就任。20年6月、常務取締役営業本部副本部長就任。23年3月から常務取締役営業本部長 兼 マーケティング戦略部長 兼 本舘営業部長に就任、現在に至る。
聞き手=玉置泰紀(たまき・やすのり)●1961年生まれ、大阪府出身。株式会社角川アスキー総合研究所・戦略推進室。丸の内LOVEWalker総編集長。国際大学GLOCOM客員研究員。一般社団法人メタ観光推進機構理事。京都市埋蔵文化財研究所理事。産経新聞~福武書店~角川4誌編集長。
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