現在の西新宿5,6丁目地区は新宿区の西のはずれに当たり、中野区、渋谷区と接しています。1932年(昭和7年)に東京市が拡大し、35区に再編された際に、この地域は「淀橋(よどばし)区」になりました。
そのいわれは隣接する神田川にかかる淀橋に由来します。橋のたもとには「淀橋の由来」の説明板が建っています。
詳細はその説明板をご覧いただければと思いますが、その後、1947年(昭和22年)になって東京は23区になり、旧牛込区、四谷区、淀橋区が合併して「新宿区」が誕生しますが、淀橋という地名はその後も使われていました。
現在はこの地区も「西新宿」になってしまい、淀橋を名乗っているのは淀橋町会、新宿駅前のヨドバシカメラぐらいしか思い当たりません(ヨドバシカメラは創業期、西新宿にて淀橋写真商会設)。
さてその淀橋町会ですが、歴史は古く設立から60年以上も経ち、現在は淀橋会館に事務所を構えています。この淀橋会館は、地元の大地主・渡辺さんから淀橋町会に寄贈されたものです。
すぐそばには、その顕彰碑があります。
元は木造の古い建物でしたが、数年前に現在のような立派な建物になりました。
その隣には60階建てのタワーマンションがそびえています。
そのほかにものこのビルの北側、南側には同様のマンションが計画されています。
この地区には新しい住民の方が増え、昔から住んでいた人たちが引っ越してしまい、昔の「淀橋」の風情は薄れてきています。これも時代の流れでしょうか。
そんな現状の中、失われたものを回顧してみるのも一考かと思い、ご紹介します。
まずは「けやき橋商店街」です。
この跡地は先ほどご紹介した60階建てのマンションになっていて、敷地の中にはそのことを紹介する碑が建っています。
この「けやき橋商店街」は、長らく地元の人たちにはなくてはならい存在でした。
精米店、精肉店をはじめ、お茶、豆腐、焼鳥、総菜など多彩なジャンルの店に加え、寿司屋、呑み屋、小型スーパーと何でもそろっていて、夕方など人の肩と肩が触れ合うほど混み合っていました。
今では跡形もありません。
さてこの商店街の名前「けやき橋…」とはどこから来たのでしょうか。
「橋」と名がついているからには川があったはず。そこで、新宿区立中央図書館に行って調べてみましたところ、『神田川』という本の中に「神田上水・助水堀」の記述がありました。
さらに1941年(昭和16年)の地図を開いてみると、細い水路が書かれています。 助水堀は、玉川上水から神田上水への助水(水量を補う)のため、1667年(寛文7年)開削されたもので、熊野大滝が有名でしたが、1898年(明治31年)の淀橋浄水場竣工により姿を消しました。浄水場の排水路としても使用され、1965年(昭和40年)に暗渠(あんきょ・地下に埋設したり、ふたをかけたりした水路)となりました。
そしてこの助水堀に「けやき橋」がかかっていました。現在の淀橋会館の前あたりです。
このけやき橋の写真を入手しようと思って昔からの住民にいろいろ聞いてみましたが、誰も所持していませんでした。残念でなりません。
実はこの淀橋地区にはもう一つ川がありました。
「あった」というよりも今もなお現役で、暗渠になってしまっているのでわかりにくいのですが、神田川に注いでいます。
この暗渠にはいくつか橋が架かっていましたが、「柳橋」もその一つで、今も1932年(昭和7年)建造の親柱が残っています。
名前の通り橋の隣には、ご近所の方が植えた柳の樹が茂っています。
その先には「羽衣橋」があります。すぐそばに羽衣湯という銭湯がありますが、そこは渋区になります。
なくなってしまい惜しまれるものを、もう少しご紹介しましょう。
十二社(じゅうにそう)通りには、「梅月湯」がありました。
銭湯は、昔の生活にはなくてはならないもので、ここ以外にも何件かありましたが、家庭に風呂が普及してきて、この町内には一軒もなくなってしまいました。
それからこの地区からは少し外れますが、実は温泉がありました。
「十二社温泉」といい、真っ黒いお湯でいかにも温泉という風情でしたが、残念ながら廃業してしまいました。
さて、消滅してしまったものばかりご紹介してきましたが、小祠(しょうし)が2つ残っています。伏見稲荷と庚申堂です。
こういうものは、末永く残ってほしいと思います。
それから、旧淀橋第三小学校には元小学校の校舎を活用した「芸能花伝舎」があります。
ここは落語芸術協会などの芸能団体の事務所や稽古場が置かれるほか、毎年いろいろなイベントも行なわれ、淀橋町会も協賛しています。
文/岩井博
プロフィール/淀橋町会副会長
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