”陸・川・海” 広~い「尾張藩」を繋ぐMaaS(交通ネットワークの最適化)が生み出す、豊かな「ものづくり&物流イノベーション」をメタ散歩してきたぞ

2024年03月14日 11時30分更新

 戦国時代をテーマに、お城や古戦場など実際の歴史の舞台を歩いたり、YouTubeやSNS、ムックを通して、コミュニケーションを楽しむメディア「戦国LOVE Walker」の連載「戦国メタ散歩」。今回は”尾張藩”という切り口で名古屋から木曽、下呂など歩き回ってきた。今の世界に、尾張藩を重ねて旅するメタ観光。尾張徳川家が繋いだ世界は想像以上にワクワクの世界だった。
*「メタ観光」とは、食から歴史、産業、風景など様々なレイヤー(層)を重ねて楽しむ観光。

国内最大級の規模を誇る徳川の絶対要塞であり、尾張藩のシンボル、名古屋城前で筆者

 筆者は東海ウォーカーの編集長として、名古屋に5年近く住んでいたが、週末は一宮市から岐阜県に抜け、中津川や長野県によく遊びに行っていたものだ。なんと、その広いエリアが、まるっと尾張藩だったとは!

 尾張と言っても、織田信長、父の信秀のイメージが強い。豊臣秀吉の時代になってからは、福島正則の所領だったが、秀吉の死後、関ヶ原の戦いで活躍した福島正則は安芸広島藩に加増移封され、徳川家康は満を持して、豊臣秀頼、淀君の大坂城、豊臣恩顧の大名が多くいる西への備えとして、家康の四男、松平忠吉を尾張藩に据えた。そして、慶長12年(1607年)忠吉の没後、九男 徳川義直に与えられた。まさに徳川幕府の戦略拠点だったのだ。

 尾張徳川家はその後、第16代の義宣まで続き、義宣は版籍奉還の後は華族に叙せられ、名古屋藩知事となり、今に続く。石高は寛文11年(1671年)には61万9000石に達し、徳川御三家筆頭として、屈指の大大名として栄えた。その領地は尾張一国に加えて、美濃、三河及び信濃の一部に広がり、特に南北は、木曽の山中から熱田湊まで変化に富んでいた。

 この広大な領地を結んだのが、陸、川、海を結ぶ尾張藩の交通システムだった。当時の国内最大の主要街道である東海道と中山道両方が藩を東西に貫き、この二つの街道を結ぶ南北に走る道、脇往還(脇街道)である美濃路、更には、南北を結ぶ交通路、物流のパイプとして重要だった木曽川、飛騨川を持ち、更には、東海道唯一の海路、七里の渡しを熱田湊から桑名宿に走らせていた。また、尾張徳川家の前に尾張を治めていた福島正則が慶長15年(1610年)、既に安芸広島に移った後だったが、家康の命令で、新しく築城した名古屋城と熱田湊を結んで開削した堀川も、城と海を繋ぐ大きな流通路となっていた。

納屋橋から見た「堀川」。整備も行われ、水辺を活かした新しい名古屋の顔になりつつある

 この尾張藩が整備した交通システムは、今でいえば、複数の公共交通やそれ以外の移動サービスを最適に組み合わせるMaaS(マース:Mobility as a Service)とも言うべきもので、エリアの特性に沿った、最適化されたネットワークになっていたことが実際に、これらの交通拠点を巡るとわかってくる。そこで今回は馬籠宿から中津川、飛騨川と馬瀬川の合流地点である下呂市金山町、下呂温泉、東海道で栄えた有松、今も水辺が賑わう堀川を巡り、この交通ネットワークが生み出した富を実感できる名古屋城と徳川美術館を訪れた。

東海道筋で荒れ地で治安も悪かったことから、尾張藩が戦略的に街を生み出した「有松」。ここで、有松絞りという、藩にとっても重要商品となった産業を創出した

 尾張藩と言うフィルター(レイヤー)を通して、このエリアを歩くと、バラバラに見えていた、それぞれの魅力的な土地がつながっていたことが重なって立ち上がってくる。まさに、多層的なレイヤー(層)が重なって見えてくる「メタ観光」の醍醐味を、尾張藩縦断散歩で楽しむことができる。

慶長13年(1608年)に生まれた東海道沿いの有松(名古屋市)の町は、尾張藩が藩の特産品として「有松絞り」を保護したことから始まった

重要伝統的建造物群一帯は、街のイメージアップに力を入れていて、例えば、お揃いの「ありまつ」と言う暖簾が風に揺れている。

 有松の町が生まれた年がはっきりしているのはなぜか。慶長13年以前には、この一帯は松林の生い茂る荒野で人気もなく、東海道ではあったが、盗賊も現れる治安の悪い場所であったため、尾張藩は移住促進政策をとり、中心地の道路沿い数百メートルについて、移住者の夫役を免じ、免租地にすると布告した。竹田庄九郎は、最初に移住してきた8人のうちの1人だった。

 この竹田庄九郎が有松絞りを始め、絞り開祖と呼ばれる。尾張藩は、有松絞りを藩の特産品として保護し、竹田庄九郎を御用商人に取り立てた。 東海道を行き来する旅人が故郷への高級土産に、絞りの手拭い、浴衣など を買い求め、街道一の名産品となった。その後、天明4年(1784年)の大火で全焼したが、およそ20年をかけた復興により、かつて萱葺であった屋根は瓦葺となり、火災に強い塗籠造で再建されることで、今の街並みが生まれ、更に繁栄を遂げた。北斎や広重の浮世絵にも描かれ、十返舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛」でも、金がなくて手拭いしか買えなかった登場人物・弥次郎兵衛を「ほしいもの有まつ染よ人の身のあぶらしぼりし金にかへても」と描写した。

 大火から240年余り経つ現在、有松は、重要伝統的建造物群・町並み保存地区に指定され、名古屋市の町並み保存指定第一号にも選ばれた。全国町並み保存連盟の発祥地でもある。2019年には、文化庁が、「江戸時代の情緒に触れる絞りの産地~藍染が風にゆれる町 有松~」として、日本遺産に認定した。

屋根には火災を防ぐために屋根に作られた「うだつ」がいくつかある

有松・鳴海絞会館では、地元の人による実演を見ることもできる

●ABO NON KIKAKU

 有松絞りの技法は70種類に及ぶと言われ、今の時代に合うような商品も開発され、今や国内だけでなく、海外にも広く知られ、愛好家を増やしている。「ABO NON KIKAKU」代表の安保成子(あぼ・せいこ)さんは、学校では美術を学んだが、手仕事に興味を持ち有松を訪れ、有松絞りの会社で8年勤めた後、絞りのデザイン、制作の仕事を始めた。有松絞りの可能性を信じ、服飾だけでなく、インテリアやノベルティ制作、ギャラリー展示、子どもたちへのワークショップなど、まさに「NON KIKAKU=規格品外」な活動を繰り広げている。

公式HP:https://www.abononkikaku.com/

古民家をリノベーションした工房を訪ねた

●手打ちめん処 寿限無茶屋

 有松では、安保さんおすすめの「手打ちめん処 寿限無茶屋」で昼ごはん。名古屋と言えばの味噌煮込みうどんを味わった。昭和59年創業で、お店は築150年の伝統的建造物家屋。

住所:名古屋市緑区有松2339 
HP:https://www.mc.ccnw.ne.jp/jyugemu/

熱田湊と桑名宿を結ぶ東海道唯一の海路「七里の渡し」は鎌倉・室町時代のころから重用された重要な交通手段だった

 七里の渡しは、尾張藩の宮宿と桑名藩の桑名宿(現在の三重県・桑名市)を結ぶ東海道唯一の海路で、その距離が七里(27. 5km)であったことから、名前が付いた。東海道の宿駅制度(制定は1616年頃といわれる)が設けられる以前、鎌倉・室町時代から利用されていて、重要な海上ルートだった。それ以前にも、一説には壬申の乱で、吉野から逃れた大海人皇子(後の天武天皇)の一族が桑名から海路、尾張に渡ったという説もある。

 渡し船での移動は、所要時間が約4~6時間。陸路の脇往還、佐屋街道では一日の行程だったので、天候の悪化などで、海難事故がしばしば発生する難所の一つではあったが、時間の短縮は魅力で大きな人気を集め、「桑名の渡し」、「熱田の渡し」、「宮の渡し」、「間遠の渡し」などと呼ばれて親しまれた。渡船場である熱田湊の宮宿、桑名宿は大層賑わい、旅籠屋数で東海道の1位と2位の規模を誇った。筆者もよく自動車で活用した伊勢湾岸自動車道が、ほぼ七里の渡しと同じコースだった。

 名古屋市熱田区の南部、南区との区界にもあたる場所に、当時を偲ぶ、常夜灯と鐘楼そして小さな桟橋からなる「宮の渡し公園」がある。桑名宿の方も整備されている。

宮の渡し公園については、名古屋市の公式サイト、熱田区のページに詳しい。
https://www.city.nagoya.jp/atsuta/page/0000078404.html

名古屋市熱田区の「宮の渡し公園」

浮世絵に描かれた「東海道五十三次 桑名」

桑名宿の渡船場も整備されている

飛騨金山にて享保5年(1720年)に開業した300年の歴史を持つ奥飛騨酒造のお酒は今も進化している

奥飛騨酒造前で筆者。

 JR東海高山本線・飛騨金山駅から歩いて10分ほどのところに奥飛騨酒造はある。途中、飛騨川と馬瀬川が合流して飛騨川として流れていく上にかかる金山橋を渡っていく。

 飛騨金山は、古くからの交通の要衝で、越中と飛騨を繋ぐ飛騨街道、金山と関を繋ぐ飛騨西街道(金山街道)、郡上八幡に繋がる路の分岐点だった。金山地区などは尾張藩の所領で、他にも、田島地区は苗木藩、下原地区は天領、後は郡上藩の所領もあって、様々な領地が混在する特異な場所となったが、奥飛騨酒造にとってはお酒を売る相手が多くてよかった、と言う。金山は宿場町として栄え、東西5町、南北5町、舟運の拠点である金山湊も擁して、昭和3年(1928年)に鉄道が開通するまでは物資の集積場として繫栄した。

 漫画、アニメで大人気の「呪術廻戦」に出てくる両面宿儺(りょうめんすくな)がいた場所としても知られ、「日本書紀」では皇命に逆らう賊とされているが、飛騨国から美濃国にかけての旧飛騨街道沿いには様々な伝承が残っていて異なる記述も多い。

 「金山町誌」では、武振熊命が討伐に来ることを知った飛騨の豪族、両面宿儺は、八賀郷日面出羽ヶ平を出て金山の鎮守山に37日間留まり、津保の高沢山に進んで立てこもったが、敗れて討死したという。別の言い伝えでは、出波平から金山の小山に飛来した両面宿儺は37日間大陀羅尼を唱え、国家安全・五穀豊穣を祈念して高沢山へ去った、とも。村人は、この山を鎮守山と呼び、観音堂を建てて祭ったという。「呪術廻戦」の両面宿儺は、平安時代に猛威を揮った呪いの王として描かれており、神話の両面宿儺そのものではなく、異形の姿からそう呼ばれた人間なのだろう。

 さて、奥飛騨酒造(旧高木酒造)は享保5年(1720年)、吉田屋多吉が酒蔵業を開始した。この地は飛騨と美濃の境にある飛騨の玄関口。面積の90%を森林が占める。奥飛騨酒造は酒造内にある地下50mの深い井戸から汲み上げた井戸水を使っており、これは、馬瀬川や飛騨川の伏流水だ。

 また、酒米には岐阜県の酒造好適米である「ひだほまれ」を主に使っていて、大粒でタンパク質が少なく、うま味のある豊かな味わいのお酒ができる。麴蓋を用いた麹造りを行うなど伝統を守りながら、新しい技術にも積極的に取り組み、スパークリングの日本酒や焼酎、梅酒、ゆず酒等のリキュール、ウォッカ、大吟醸生チョコレートまで幅広く開発している。

 奥飛騨酒造の建物は、下呂市の景観重要建造物第一号に選ばれている。大福帳が1830年から残されていて100冊以上になる。天保年間に尾張侯にお酒を献上して「初緑」と言う名前をもらったが、20年ほど前に復活した。

●奥飛騨酒造

住所:岐阜県下呂市金山町金山 1984番地
HP:https://www.okuhida.co.jp/

飛騨金山の北に位置する日本有数の温泉街「下呂温泉」は古くからの歴史を持ち、徳川幕府初期のキーマン・林羅山もプッシュした

3枚目の写真は林羅山の像

 飛騨金山駅から北へ、JR東海高山本線に乗って特急なら20分、各駅停車でも28分ほどで着く日本を代表する温泉が「下呂温泉」。4キロほど離れたところに、湯ヶ峰という海抜1,067mの山があるが、およそ10万年前に噴火したと言われる。下呂温泉は最初、この湯ヶ峰の頂上付近で、平安時代の中頃にあたる天暦年間(947~957年)に発見された。下呂温泉の発見年代については、このほかにも、延喜年間(901~923年)と記した書物もある。八代将軍・徳川吉宗の飛騨代官を勤めた長谷川忠崇が、将軍の命により完成した「飛州志」には天暦年間とあり、「飛騨編年史要」には延喜年間とある。いずれにせよ900年代のことで、1000年以上の歴史を持つ名湯だ。

 しかし、こののち、鎌倉時代中頃の文永2年(1265年)以前のある日、湯ヶ峰の頂上付近で湧出していた温泉が突然出なくなり、現在の源泉地といわれている場所、温泉街の中央を流れる飛騨川の河原で再び発見された。この温泉の再発見については「白鷺伝説」が有名。薬師如来が一羽の白鷺に化身し、湧出地を知らせたという伝説で、今も温泉街の橋の欄干など、至る所に白鷺がデザインされている。湯口の移動により、湯ヶ峰に安置してあった薬師如来像を村里に移動し、温泉寺とした。

 温泉の出る場所が平地に移動し、温泉の利用が便利になり、名泉の評判が各地に広がっていった。室町時代の末期、延徳元年(1489年)には、全国各地を紀行した京都五山の僧、万里集九(ばんりしゅうく)も下呂温泉を訪れその名泉ぶりを讃えている。詩文集「梅花無尽蔵」に「本邦六十余州ごとに霊湯あり。その最たるものは、上州の草津、津陽の有馬、飛州の湯島(下呂)、この三か所なり」と記した。

 さらに、江戸時代初期の儒学者で、徳川家康、秀忠、家光、家綱の4代の将軍に仕えた林羅山も同様に、「林羅山詩集第三西南行日録」に「我が国は諸州に温泉を多く有す。その最も著しいものは、摂津の有馬、上州の草津、飛騨の湯島(下呂)、この三か所なり」とし、さらに「今、有馬、草津は広く世の知るところとなり。湯島は古来の霊湯たること、遠く知るもの少なしといえども、入湯する人はその験を得ざることなし」と、下呂温泉をプッシュしている。全国で、様々な日本三名泉があるが、万里集九と林羅山の2人が、下呂温泉を評価したことの意味は大きく、温泉街には、2人の銅像や記念碑が設置され、下呂温泉まつりの参進行列は「温泉感謝祭(万里集九祭・林羅山祭)」として開催されている。

下呂温泉旅館協同組合公式HP:https://www.gero-spa.or.jp/

温泉街を流れる飛騨川の河原には足湯も。街のそこここに足湯があって楽しめる

加恵瑠神社。平成22年(2010年)に下呂温泉・湯の島通りに誕生した。お賽銭にお金を入れるとお告げが聞ける。カエルの鳴き声「ゲロゲロ」や、また、この温泉に「帰る」という意味もあるのだろうか

●水明館

 今回の旅で宿泊したのは下呂温泉を代表する旅館の一つ、昭和7年に開業した「水明館」。宿名は、水に明けゆく湯の煙、「水」と「明ける」で水明館となった、という。総面積1万平方メートルの広大な敷地に、山水閣、飛泉閣、臨川閣の3つの館と離れ「青嵐荘」があり、室内温泉プールやスポーツジムもあり、それぞれの館には、緑と巨岩に囲まれた野趣あふれる「野天風呂」、街を見下ろす24時間入浴可能な「展望大浴場」、檜香る「下留の湯」と3つの大浴場がある。

 また、人間国宝の陶芸家、加藤卓男によるタイル壁画や、横山大観の絵画など、美術的価値の高い作品を数多く所蔵しており、これらの展示も見どころの一つとなっている。能楽の観世流能楽師の故関根祥六が監修した能舞台もあり、下呂温泉の豊かさに触れることができる。

住所:岐阜県下呂市幸田1268
水明館公式HP:https://www.suimeikan.co.jp/

5枚目の陶壁は加藤卓男の「泉郷に憩う」。加藤氏は、西アジアに伝わった伝統の陶芸技法、ラスター彩の復元に力を入れ、三彩、青釉、ペルシャ色絵を駆使して、異民族の文化と日本の文化の融合を目指した

●山びこ

 下呂温泉で50年以上の歴史を持つ人気行列店。地元のB級グルメ「けいちゃん」や「飛騨牛朴葉みそ」などを求めて多くの人がやってくる。飛騨の山と川の自然素材でつくる「体に良くて旨いもの」を出す。春は山菜、夏は川魚、秋冬は猪鍋・じねんじょと、四季折々の地元食材で腹を満たす。

住所:岐阜県下呂市森1088-2
公式HP:http://j47.jp/yamabiko/

「けいちゃん」730円(税別)。けいちゃん合衆国認定、けいちゃん鉄板焼き。けいちゃん定食は、ご飯、みそ汁、つけものが付いて1,000円(税別)。岐阜県の郷土料理「鶏ちゃん」は、みそやしょうゆベースのたれに漬け込んだ鶏肉を、キャベツや玉ねぎ、にんじん、ピーマンなどの野菜といっしょに炒めた料理。山びこはキャベツと玉ねぎのみそ味だ

「飛騨牛朴葉みそ」910円(税別) 。味噌だけでも好評な自家製味噌を使用。飛騨牛朴葉みそ定食は小鉢、ご飯、みそ汁、つけもの、だんごが付いて1,364円(税別)。飛騨地域では、秋に落葉した朴葉(ほおば)を拾い集め、調理用具に活用してきた。朴葉味噌は、味噌と刻んだねぎを朴葉の上で焼きながら食べる素朴な料理で、このエリアでは欠かせないレシピ

「木曽路はすべて山の中である」中山道43番目の宿場町から中津川の街中を歩く(栗きんとんは外せない!)

道路が南北に貫通している尾根に沿っている急斜面で、両側に石垣を築いては屋敷を造っている

 「馬籠宿」は中山道43番目の宿場町(全部で69の宿場町がある)。馬籠峠は岐阜県と長野県の県境にあり、長野県側には妻籠宿がある。昔の街道の風情が残り、2つの宿場町は観光地として人気で、インバウンドの旅行客も極めて多い。馬籠宿は、道路が南北に貫通している急な山の尾根に沿っている急斜面で、両側に石垣を築いては屋敷を造る「坂のある宿場」になっている。

 「木曽路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた」

 このフレーズではじまる「夜明け前」の作者・島崎藤村は、1872年に馬籠宿で本陣・庄屋・問屋を兼ねていた島崎家に生まれた。郷里を実に瑞々しい文章で活写している。この作品は、島崎藤村の父・島崎正樹をモデルに、明治維新前後の動乱の世相を描いたものだ。宿場町のほぼ中間地点には、島崎藤村の生家でもある、旧本陣の藤村記念館がある。

 馬籠宿は明治28年(1895年)と大正14年(1915年)の火災で、古い町並みは石畳と枡形以外はすべて消失したが、その後復元され現在の姿となった。

勾配は結構あるが、石畳を歩くのはいいトレッキング。五平餅を途中で食べるのも楽しい

島崎藤村の生家でもある、旧本陣の藤村記念館。「夜明け前」「嵐」などの作品原稿、遺愛品、周辺資料、明治大正詩書稀覯本コレクションなど約6千点を所蔵する。常設展示室には処女詩集『若菜集』から絶筆『東方の門』までを展示している。公式HP:http://toson.jp/

●木曽五木

 木曽谷の森林は、尾張藩直轄の領地だった。木曽の木材は良質で知られ、名古屋城本丸御殿や江戸城の築城、造船、土木用材等、様々なところで利用されていた。約100年間にわたって、木曽谷の森林は伐られ続けたため、木材資源が枯渇してしまった。

 そこで、尾張藩は森林保護政策として「停止木制度(ちょうじぼくせいど)」を設け、ヒノキ、サワラ、アスナロ、ネズコ、コウヤマキの五木の伐採を禁止したのだ。停止木制度は、ヒノキの保護を目的とし、ヒノキに外観が似て、かつ利用価値の高い樹種も禁止木に選んだ。禁止木を伐採した者への罰は、「木一本、首一つ」と呼ばれるほどで、厳罰に処した。森林保護制度によって保護された樹種は「木曽五木」と呼ばれ、現在は木曽谷の名産品となっている。

3枚目の写真は、馬籠宿を登り切った「馬籠上陣場」(まごめかみじんば)跡で、天正12年(1584年)、豊臣秀吉と徳川家康が唯一、直接対決した「小牧長久手の戦い」で、徳川方の菅沼・保科・諏訪氏の軍が陣取った。恵那山が一望でき、木曽谷の豊かな森林を一望できる。4枚目の橋は、木曽川に架かる恵那峡大橋で、馬籠から西に進んだ中津川市街の西橋に架かっている。尾張藩の重要な資源だった木曾五木は、慎重に保護されながら、この木曽川を使って、名古屋に運ばれていた

●落合の石畳

 中山道の馬籠宿から中津川市街の落合宿に行く途中には急な坂道が多くあり、旅人の便を図り、同時に坂道を大雨から守る策として、「落合の石畳」が作られた。今は、昔の姿を留めていた三か所を含めて約840mが再現されている。

 美濃国(現・岐阜県)「落合宿」と信濃国(長野県)「馬籠宿」の境、かつての国境に位置する新茶屋には、江戸日本橋を起点として83里目の一里塚があり、東側の片方のみ、塚の形状をほぼ保っている(西側は復元)。新茶屋の名は、十曲峠(とまがりとうげ)の美濃国側にあった立場茶屋(たてばちゃや)がここに移ったことが地名の由来、という。茶屋の名物はわらび餅だった。

●落合宿

 「落合宿」は、江戸から44番目の宿場町。落合宿本陣は岐阜県内の中山道17宿の中で唯一本陣が残っている。木曽路の険しい難所をひかえ、映画「十三人の刺客」で決戦地としても描かれた。一般公開を休止していた中山道落合宿本陣は、2023年から毎週日曜日と祝日の一般公開を再開している。なお、降雨時には公開を中止する場合がある。

公式HP:https://www.city.nakatsugawa.lg.jp/soshikikarasagasu/kankoka/5/2/755.html

●中山道広重美術館

 中山道広重美術館は、平成13年(2001年)、歌川広重の浮世絵版画を中心とする美術作品の展示・収集・保管を主な目的に開館した。かつて恵那市には、岐阜県内の中山道17宿の一つ、大井宿があった。往時の繁栄を取り戻すことを目指した恵那駅周辺の再整備事業の総仕上げとして、市内の浮世絵収集家、故田中春雄氏から寄贈を受けた歌川広重の浮世絵版画「田中コレクション」を中心に美術館が出来上がった。

 収蔵する美術品は、歌川広重がその円熟期に中山道を描いた「木曽海道六拾九次之内」など約1,500点。これらの収蔵美術品を毎月企画展や特別企画展という形で展示している。館内には浮世絵について楽しく学べ、重ね摺り体験が出来る「浮世絵ナビルーム」などもある。

住所:岐阜県恵那市大井町176₋1
公式HP:https://hiroshige-ena.jp/

●お菓子所 川上屋 手賀野店 栗きんとん

 川上屋は、初代の原 四六(はらしろく)が、中山道宿場町中津川宿で、 江戸末期の元治元年(1864年)に始めた。 以来、交通の要所として東美濃随一の宿場町として栄える中で、恵まれた土地から生み出される栗などの産物を使用して、歴史を重ねてきた。

 中津川宿は中山道の45番目の宿場町。町並みは東西に約1kmで、美濃・飛騨・木曽・南信への交通の要所、商業の中心として、東美濃では最も大きな宿場町として栄えた。

 名物の栗きんとんとは、一度蒸した栗の実を、砂糖と炊き上げて、布巾で栗の形にかたどるシンプルな和菓子。期間限定販売で、9月1日~12月27日(年により終了日が前後することがある)の期間中に販売される。厳選した国産栗を使用し、自然の風味を生かすため少量の砂糖で仕上げている。中津川は栗きんとん発祥の地ともいわれている。

住所:岐阜県中津川市手賀野西沼277₋1
公式HP:https://www.kawakamiya.co.jp/

福島正則が開削した「堀川」は尾張徳川家の名古屋を支え、明治以降も物流を支え、今はユニークな河川遊覧などでミズベリングの聖地になっている

堀川と筆者。歩いていて気持ちの良い空間に。船も走る

 慶長14年(1609年)、徳川家康によって、水害に弱いなどの理由で、清須から名古屋への遷府が指令されると、慶長15年(1610年)より清須城下町は名古屋城下に移転された(清洲越し)。

 名古屋の城下町は、熱田の浜から離れた内陸部に設けられたため、城下で必要な米や野菜、魚、塩などの物資を大量に輸送できるのは船しかなかった。このため、築城と同じ慶長15年(1610年)に、前の領主、福島正則により、海に面していた熱田と名古屋城下を結ぶ川が名古屋台地の西に沿って掘られた。そうして出来た「堀川」の規模は、名古屋城から熱田まで長さ1里半余り(約6km)、幅12から48間(約22から87m)。堀留(上流端)は、名古屋城の外堀に設けられた辰の口(排水口)と水路でつながり、お堀の水が堀川に流入していた。

 堀川の流れ着く七里の渡しは、海路の起点で、そこにあった宮宿は、東海道五十三次の41番目の宿場である。中山道垂井宿にいたる脇街道・美濃路(美濃街道)や佐屋街道との分岐点でもあり、幕府や尾張藩の公文書では熱田宿とも書かれている。東海道でも最大の宿場であり、古くからの熱田神宮の門前町、港町でもあった。

 堀川開削の頃の護岸は素掘りのままで、橋は七か所に架けられ「堀川七橋」と呼ばれた。堀川七橋とは、上流から下流に向かって五条橋、中橋、伝馬橋、納屋橋、日置橋、古渡橋、尾頭橋。五条橋と伝馬橋は清須の五条川に架けられていたものを移築したと伝えられる。五条橋の擬宝珠には「五条橋慶長七年壬寅六月吉日」と堀川の開削より古い年号が刻まれ、現在は名古屋城で保管されていて、橋にはレプリカが取り付けられている。

 堀川は名古屋城下の住民が必要とする大量の物資輸送の動脈であり、「尾張志」には「諸国の商船、米穀、炭、薪、竹木、器財、魚菜の類、諸雑物を運送するに此川を出入りし、府下第一の用川也」と記載されている。川に沿って、多くの豪商が住まいを構え、荷物を保管する蔵が堀川に向かって建てられていた。

 また、尾張藩領であった木曽からは良質のヒノキ等が木曽川を下り伊勢湾を横切り堀川をさかのぼって城下に搬入された。当時の河口近くには広大な貯木場が設けられ、上流の市街地には木材を扱う商人が住んでいた。

 その後も、流入する川を加えるなど、様々な変遷を経て、下流部では江戸時代には新田開発、明治以降の名古屋港の築造、工業用地の造成のために埋立てが行われ、これに伴って堀川も延伸され、現在の16.2kmになった。

 昭和37年~昭和39年(1961年~1964年)には、昭和34年(1959年)の伊勢湾台風の高潮被害を踏まえ、堀川河口部に防潮水門がつくられた。昭和61年(1986年)に市政100周年記念事業として位置づけられ、昭和63年(1988年)から河川改修に着手し、平成4年(1992年)からは堀川を活かしたまちづくりを行うため、「マイタウン・マイリバー整備事業」として河川改修を進めた。

 そうして、平成8年(1996年)に宮の渡し、平成9年(1997年)に名古屋国際会議場、平成13年(2001年)に納屋橋、平成17年(2005年)に朝日橋の船着場が整備され、都心と港を直接結ぶ交通路として、またユニークな遊覧の場所として、水辺を活性化するミズベリングの舞台となり、今に至る。

名古屋市HP:https://www.city.nagoya.jp/kurashi/category/15-4-4-0-0-0-0-0-0-0.html

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平成13年(2001年)に整備された納屋橋で。その後もリノベーションは続いている

熱田神宮の創祀は、三種の神器の一つ草薙神剣の御鎮座に始まる。第12代景行天皇の御代に、日本武尊は神剣を今の名古屋市緑区大高町火上山に留め置かれたまま三重県亀山市能褒野(のぼの)でなくなられた。尊のお妃である宮簀媛命は、神剣を熱田の地にお祀りになられた。戦国時代、宮司を司る千秋家は武将として織田家に仕え、千秋季光が織田信秀に、季光の子季忠は織田信長に仕えている。信長は桶狭間の戦いの前に熱田神宮に戦勝を祈願して見事に勝利を収めた。江戸時代は熱田神宮周辺に東海道五十三次の41番目「宮宿」が設けられ、桑名宿への七里の渡しが運行され大変賑わった 公式HP:https://www.atsutajingu.or.jp/jingu/

対豊臣の最終絶対要塞として建造された名古屋城は尾張徳川家16代の居城としてそびえ、B29の空襲で焼け落ちても復活する屈指の名城だ

天守閣と復元された本丸御殿前の筆者

 「堀川」この項でも触れたが、徳川家康は慶長14年(1609年)、水害に弱いなどの理由で、清須から名古屋への遷府を指令し、慶長15年(1610年)より清須城下町は名古屋城下に移転された。いわゆる「清須越し」だ。名古屋市西区に5年近く住んでいたので清須城のあたりが水害に弱いのはよくわかるが、関ヶ原の戦いの褒賞として、福島正則を安芸広島に加増領地替えしたのも、対大坂、西国への防衛線として尾張を重要視して、九男の徳川義直を据えたのも、清須越しで当時の国内最大級の名古屋城を新たに建造したのも、絶対最強要塞を作ろうとしたからではないだろうか。

 そして、名古屋城は、初代の義直以降、16人の藩主が守り、約260年にわたって尾張徳川家の居城となった。

 築城のころを振り返ると、慶長12年(1607年)、尾張一国を与えられていた四男・松平忠吉が28歳で死去。これを、九男の義直が継ぎ、尾張徳川家の開祖となった。

 当時の尾張藩の居城であった清須城は、水害などの危険性が高いため新たに築城の必要ありとの上申があり、慶長14年(1609年)、家康は、名古屋台地に城を造るよう名古屋遷府令を発した。

 家康は、豊臣方への包囲網を築くため、公儀普請によって各地の城の整備を進めていて、丹波篠山城、丹波亀山城、伊賀上野城などが築城されており、名古屋城も慶長15年(1610年)、公儀普請によって築城が始まった。加藤清正、福島正則など、西国や北国の諸大名20名が動員された。普請による築城で、大名の経済力を削ぐ目的もあったという。外様大名には石垣建造の担当箇所がそれぞれに割り振られたが、天守台の石垣は、名手とされた加藤清正が自ら申し出て、3か月とかからずに築き上げた。

 慶長17年(1612年)には、大・小天守が完成。大天守大棟には金鯱が上げられ、尾張徳川家の象徴となった。同年に本丸御殿建設にも着工し、1615年(元和元)に完成している。

 徳川幕府が倒れた後は、明治2年(1869年)、版籍奉還で尾張藩は名古屋藩と改称、その後、明治4年(1871年)に廃藩置県で名古屋県となった。名古屋城は、本丸に陸軍東京鎮台第三分営が置かれ、二之丸、三之丸も陸軍省の所管に。さらに、東京鎮台第三分営から名古屋鎮台に改称され、天守を仮兵舎、本丸御殿が名古屋鎮台本部になった。この頃、城内に新たに陸軍の施設が建てられると同時に、二之丸御殿をはじめ多くの建物が撤去された。

 こうした動向に対し、名古屋城を保存すべきとの声が挙がり始めた。これに対して、陸軍省、内務省、大蔵省は明治12年(1879年)、名古屋城を姫路城とともに「全国中屈指の城」として、永久保存する方針を決定した。しかし、明治24年(1891年)濃尾地震が発生。本丸多聞櫓や西之丸の榎多門(えのきだもん)は大破し、石垣の一部が崩壊した。地震による修復は陸軍省が費用を負担し、技術者を擁する宮内省が実務を行ったが、本丸多聞櫓は撤去された。

 名古屋城が宮内省に移管され、明治26年(1893年)に本丸・西之丸東部は名古屋離宮となった。昭和5年(1930年)まで、この名で呼ばれ、天皇や皇后を度々迎えることになった。京都の二条城も同様に離宮だった。本丸御殿は、皇族の宿泊所として利用された。明治44年(1911年)、濃尾地震で大破した榎多門に代わり、旧江戸城の蓮池門を移築し、離宮の正門とした。大正10年(1921年)の台風で壊れた西南隅櫓は、大正12年(1923年)宮内省が修復したので、同櫓の瓦には葵ではなく菊の紋章が見られる。

 そして、昭和5年(1930年)、宮内省から名古屋市へ名古屋離宮が下賜され、本丸・西之丸・御深井丸(おふけまる)が市の所管となった。さらに、前年に施行された国宝保存法によって、天守・本丸御殿など場内の24棟の建物が城郭としてはじめて旧国宝に指定された。

 太平洋戦争に突入し、昭和20年(1945年)5月14日の朝、アメリカ軍の爆撃機B-29が名古屋市北部に無数の焼夷弾を投下し、1時間以上におよぶ爆撃で名古屋は火の海になった。名古屋城は、天守、本丸御殿など主要な建造物が焼失した。金鯱を避難させるために組まれていた足場に焼夷弾が引っかかり、そこから上がった火炎が城全体を火だるま状態にしたという。東南隅櫓、西南隅櫓、本丸表二之門、二之丸の二之丸東二之門、二之丸大手二之門、御深井丸の西北隅櫓の6棟は辛うじて戦災を免れた。

 戦後、名古屋城再建を願う声が市民から高まり、昭和30年(1955年)、名古屋市は名古屋城再建準備委員会を立ち上げ、地質調査や費用捻出を検討し始めた。市民をはじめ、国内外から多くの募金が寄せられ、昭和32年(1957年)、天守閣再建に着工、昭和34年(1959年)、市政70周年記念事業として、大天守・小天守・正門(榎多門)が鉄骨鉄筋コンクリート造で再建された。

 その後、平成21年(2009年)、戦争で失われた本丸御殿の復元整備が始まった。建物は焼けたが、障壁画などの美術工芸品や戦前の写真、実測図などが残されていたため、忠実な復元が可能になった。平成25年(2013年)に玄関・表書院の公開、平成28年(2016年)に対面所・下御膳所の公開を経て、平成30年(2018年)に完成公開を迎えた。

住所:愛知県名古屋市中区本丸1-1
公式HP:https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/

大名文化を後世に伝えるために収集された尾張徳川家伝来の、家康以来の逸品たち1万件余りが集まる奇跡の美術館が何度来ても痺れるぞ

徳川美術館の特別展「尾張徳川家の雛まつり」より「尾張徳川家三世代の雛段飾り」。明治から昭和にかけての三世代の当主夫人が大切にしていたお雛様。高さ2m、幅7mの雛段は壮観で、尾張徳川家の豊かさを今に伝える

 徳川美術館は、第19代当主の義親により、大名文化を後世に伝えることを目的に、昭和10年(1935年)に開館した。元は、尾張徳川家二代光友の隠居所の跡地で、家老の三家の別邸になっていたのが明治22年(1889年)に尾張徳川家の所有となり、名古屋本邸が建てられた場所だった。名古屋時代は、この美術館の隣のマンションに住もうとしていたくらい大好きな場所で、プライベートで軽く10回以上訪れているが、充実した所蔵品を見つくすことができないほど充実していて、常に楽しい。

 尾張徳川家は江戸時代を乗り切り、明治以降もしっかり継続してきた稀有な大名家のひとつで、徳川家康の遺品(駿府御分物)から、初代義直(家康九男)以下代々の遺愛品、いわゆる「大名道具」1万件余りを維持してきた奇跡的な美術館であり、この記事のテーマである尾張藩の豊かさをもっとも実感できる場所だ。国宝「源氏物語絵巻」をはじめ、国宝9件、重要文化財59件など、種類の豊富さ、質の高さ、保存状態の良さが素晴らしい。

 徳川美術館本館と南収蔵庫の建物は、吉本与志雄の設計により1935年に竣工した帝冠様式の建物で、造形の規範となっているものとして国の登録有形文化財(建造物)に登録されている。また、2014年には、美術館の敷地内に建つ、心空庵及び餘芳軒、餘芳軒東屋、山の茶屋の3件が国の登録有形文化財(建造物)に登録されている。

 展示室の設えも非常に思い切った作りになっていて、第3展示室では、名古屋城の二之丸御殿の一部が復元されていて、大名の室礼(しつらい)、書院飾りを当時の人たちが見たような空間で名品鑑賞ができる。第4展示室では、武家の式楽である能の装束が原寸大の能舞台の上で展示されている。この能舞台は、二之丸御殿の御広間前にあったものを再現したものだ。

住所:愛知県名古屋市東区徳川町1017
公式HP:https://www.tokugawa-art-museum.jp/

国宝 短刀 無銘 正宗 名物 庖丁正宗(鎌倉時代、14世紀)。徳川家康の遺品(駿府御分物)。名工正宗作の短刀の中でもとくに有名な作品

●両口屋是清 本町店

 尾張徳川家、尾張藩御用達の和菓子店。「千なり」で知られる両口屋是清(りょうぐちやこれきよ)は、寛永11年(1634年)、大阪から新天地を求めて初代猿屋三郎右衛門が名古屋で開業した。「御菓子所 両口屋是清」の表看板は、第2代尾張藩主・光友より贈られたものだ。両口屋是清には、尾張藩に御用菓子を献上するときに使われた家紋入りの「通筥」が今も所蔵されている。

住所:愛知県名古屋市中区丸の内 3丁目 22-6
公式HP:https://ryoguchiya-korekiyo.co.jp/

人気の「千なり」と「通筥」

2020年に「尾張藩」をキーワードに中部地方の観光を盛り上げようと、愛知、岐阜、長野3県の計12市町村や民間企業が設立した「尾張藩連携事業推進協議会」の狙いは何か?

 2023年現在のメンバーは、名古屋市・中津川市・犬山市・郡上市・下呂市・塩尻市・木曽町・上松町・南木曽町・木祖村・王滝村・大桑村のかつての「尾張藩」に所縁のある自治体と、東海旅客鉄道(株)・(一社)中央日本総合観光機構・名古屋鉄道(株)・中部国際空港(株)・中日本高速道路(株)・名古屋高速道路公社・(公財)名古屋観光コンベンションビューローの面々。皆が連携をして、名古屋を起点として昇龍道中央エリアを周遊する尾張藩周遊ルートを新たに形成し、欧米豪からの集客を目的とした広域観光プロモーションを行う。

 普段イメージしていた以上に尾張藩が広く、今回、尾張藩と言うフィルターでメタ散歩しようとしたときに、江戸時代にどうやって人の移動や物流が行われていたのかが気になり、旧街道や河川交通、海路を見直してみて、今の観光地とは全く違うネットワークと意味が見えてきてゾクゾクした。尾張徳川家は勿論、古くからの家業や伝統産業が今に続き、当時の人たちも、受け継いでリノベーションを仕掛けている今の人たちも大きなリンクの中にいるのが体感できて楽しかった。これを機会に、ぜひ、それぞれの人の散歩を完成させてほしいな。

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