皆さま、こんにちは。今回は、三菱一号館美術館で開催中の「異端の奇才――ビアズリー」について、本展担当学芸員の加藤明子がご紹介します。
画家として生きる道を独自に切り拓き、栄光を手にしてからわずか数年で、肺結核により25歳で他界したオーブリー・ビアズリー(1872-1898)。本展ではその画業に真正面から迫ります。

《オーブリー・ビアズリーの肖像――横顔》フレデリック・エヴァンズ、1894年頃、フォトグラヴュール、12.2.0 x 9.9.0 cm、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館 Photo: Victoria and Albert Museum, London
ビアズリーは1872年8月、英国南部の街ブライトンで生まれます。父方の財産は父が放蕩の末に使い果たし、母がピアノやフランス語の家庭教師をして家計を支えました。ビアズリーは幼いころから文学に精通し、絵が得意だったそうです。
しかし、母を助けるために進学を諦め、16歳で事務員としてロンドンで働き始めます。日中の仕事を終えたあと、夜ひとりで絵を描きつづける暮らしのなか、好機が訪れたのは1892年のこと。仕事の合間に通いつめた金融街の書店の経営者を介して、『アーサー王の死』の挿絵を描く仕事が舞い込んだのです。師と仰いだエドワード・バーン=ジョーンズの影響が色濃く見られる口絵には、現代の劇画にも通じる痛快なユーモアが感じられます。

《アーサー王は、唸る怪獣に出会う》オーブリー・ビアズリー、1893年、ペン、インク、ウォッシュ/紙、37.8 x 27.0 cm(画寸)、39.8 x 28.6 cm(紙寸)、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館 Photo: Victoria and Albert Museum, London
1893年4月に『ステューディオ』創刊号で特集を組まれてからの活躍ぶりは凄まじいものでした。文豪オスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』英訳版(1894)の挿絵画家に指名され、その斬新で独特な画風で話題をさらい、前衛的な文芸誌『イエロー・ブック』の美術編集を任されるなど、当時21歳のビアズリーは成功を謳歌していました。しかしながら、その勢いは1895年4月、ワイルドが同性愛の咎で投獄されると、突然に止まります。

《クライマックス》オーブリー・ビアズリー、1893年(原画)、1907年(印刷)、ライン・ブロック/ジャパニーズ・ヴェラム[厚地和紙]、34.2 x 27.2 cm(紙寸)、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館 Photo: Victoria and Albert Museum, London
風評被害を恐れた出版業者は、ワイルドとのつながりを連想させるビアズリーを『イエロー・ブック』の編集から即座に外したのです。定収入を絶たれて困窮したビアズリーは、体調の悪化も顧みず、多様な仕事を精力的に手がけ、あらたに芸術雑誌『サヴォイ』を立ち上げるなど、起死回生を図ります。そうした苦闘のなかで発展させた後期の画風は、それまでにない清新さと克己心に満ちていました。しかし、画家として成熟に向かう最中にあったビアズリーは1898年3月、ついに身体が持ちこたえず、絶命します。
本展では、ビアズリーが『サロメ』の挿絵にも描き込んだ「アングロ=ジャパニーズ様式」の調度をあわせて陳列し、同時代の雰囲気のなかで全盛期の作品を概観します。また、あらたな試みとして、ワイルドが真に求めた「サロメ」像について考察し、ギュスターヴ・モローやチャールズ・リケッツによる秀作を紹介します。
会期は連休明けの5月11日(日)まで。皆さま、ぜひお運びください。
異端の奇才――ビアズリー
会期:2025年2月15日(土) ~5月11日(日)
URL:https://mimt.jp/ex/beardsley/
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