筆者が総編集長を務める戦国LOVE Walkerでは、戦国時代前後(室町時代末期から江戸時代初期まで)をメインに、歴史というレイヤーであたらしい観光を考える「戦国メタ散歩」の現地リポートをスタートした。第一回の京都新城、第二回の元離宮二条城に続いて、第三弾は、加藤清正が造った名城、熊本城に行ってきた。
九州ウォーカーの編集長だったころから幾度か尋ねてきたが、平成28年(2016年)の熊本地震からは初めて訪れた。熊本城は天守閣全体の復旧が完了し、2021年6月28日から全面リニューアルした展示と、最上階からの展望も楽しめるようになったが、地震で崩壊した石垣は50ヵ所、229面に及び、重要文化財建造物13棟や復元建造物などの被害も大きく、2022年11月の記者会見では、熊本市の大西一史市長は、完全復旧の見込みが当初予定の2037年から15年遅れ、2052年になる見込みであると発表している。
熊本城は、加藤清正が、慶長12年(1607年)、茶臼山と呼ばれた台地に築いた。以後、熊本城は400年以上にわたって、この地のシンボルとして存在し、細川家の治世でも、明治以降の軍事拠点として、西南戦争では、西郷軍も退けた名城。今回は、熊本市の熊本城総合事務所の方にアテンドしてもらい、天守閣の攻めの展示を堪能し、復旧作業の一端を見せてもらってきた。
熊本城の大天守は関ヶ原の戦いの年に生まれたが、加藤清正は関ヶ原にいなかった
このエリアの城としては、古くは室町時代、肥後守護である菊池氏の一族、出田秀信が文明年間(1469年〜1487年)に千葉城を築いたとされるのが最初。出田氏が衰え、菊池氏は代わりに鹿子木親員(寂心)に隈本城(現在の古城町)を大永・享禄年間(1521年〜1531年)に築かせた。その後、様々、城主は入れ替わるが、天正15年(1587年)、豊臣秀吉が九州平定に乗り出し、佐々成政が肥後の領主となり隈本城に入った。しかし、秀吉の指示に反して検地を強行するなどして、肥後国人一揆が起き、翌天正16年(1588年)、成政は秀吉に切腹を命じられ、代わって、加藤清正が肥後北半国の領主に任ぜられた。
天正16年(1588年)、加藤清正は、肥後北半国19万5千石の領主として隈本城に入った。そして、天正18年(1590年)、隈本城の改修に着手、慶長4年(1599年)には、茶臼山に新城(熊本城)の築城に着手したと思われる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの頃に、大天守が完成。慶長12年(1607年)に新城が完成し、隈本を熊本に改称した。
ところで、加藤清正はなぜ関ヶ原の戦いに東軍として参陣しなかったのか。
遡ると、秀吉が慶長3年(1598年)に死去すると、清正は徳川家康に接近し、家康の養女を継室として娶り、さらに、慶長4年(1599年)に前田利家が死去すると、福島正則ら七将の一人として石田三成暗殺未遂事件を起こし、失敗するが、家康への接近を強めていた。
そこに大事件が起きた。慶長4年(1599年)の庄内の乱である。場所は現在の宮崎県都城市あたりの日向国。島津氏と重臣である伊集院氏の争いで、五大老の家康が事態の調停に入っていたが、近隣の大名である清正が伊集院氏を支援していたことが発覚し、家康は激怒して、清正の上洛を禁じた。清正は、慶長5年(1600年)に大坂に入り釈明に努めたが家康は認めず、上杉討伐の会津征伐への参加を許さなかった。国元に留まるように命じられていたため、同年9月の関ヶ原の戦いの際も、清正は領国である肥後にいた。このころに、大天守が完成したのだ。
結果的には、疎遠になっていた清正が西軍につくことを恐れた家康が東軍への加勢を認め、黒田如水とともに、九州の西軍を打ち破り、西軍として敗れ斬首された小西行長の肥後南半を与えられ、肥後一国52万石の大名となった。慶長8年(1603年)には、肥後守に(従四位下)、慶長10年(1605年)には侍従に叙任されており、翌々年の慶長12年に熊本城が完成したわけである。
清正は、熊本城の築城だけでなく、戦乱で荒れ果てていた肥後を立て直すために、治山治水工事や、水田の開発などに力を入れ、その工事の功績はたいへん大きく、現在でも現役で利用されているものがある。南蛮貿易に取り組むなど、領地経営を積極的に行ない、肥後が豊かになった事から、清正は領民から神様のように慕われ、今も「清正公(せいしょこ)さん」と親しみをもって呼ばれている。
熊本城の「天守」の歴史にクローズアップされた特別公開は楽しくて良くわかる
2021年に復旧完了した天守は、展示も地震前から全面リニューアルされ、熊本城の「天守」の歴史をクローズアップし、築城から西南戦争開戦直前の焼失、昭和35年の天守再建、 平成28年熊本地震での被災と復旧までを模型・映像などを活用して、分かりやすく解説している。
地階 穴蔵
天守閣のエントランスになる小天守地階。小天守は大天守と連立結合していて、石垣の中は穴蔵構造になっていて、穴蔵は「御水屋」と呼ばれ台所として使われていた。井戸やかまどがあって、籠城にも耐えられた。現在の展示では、18世紀末の絵図に基づいて、石垣や井戸など現存する遺構を活かし、江戸時代に台所だった空間をイメージできるような展示になっている。
1階 加藤時代
加藤清正による築城や河川改修による城下の形成、江戸時代の天守のつくりやデザインについて、再建当時の貴重な大型模型などを用いて解説していて、迫力十分。シアター映像「不屈の城」「難攻不落の城」も楽しめる。
2階 細川時代
寛永9年(1632年)、清正の子・加藤忠広の改易により、豊前小倉城主だった細川忠利が肥後54万石の領主となり熊本城に入った。以後、熊本城を管理した細川家の時代にさらに整備が進んだ城と城下について、模型に映像を投影して紹介している。また、武器庫としての天守の展示や、藩主の登城の様子を映像を用いて解説している。忠利は、祖父幽斎、父忠興の血筋を受け継いだ文人であり、武道にもすぐれた才能をもっていた。晩年の宮本武蔵(1584年~1645年)を客人として熊本に招いたのも忠利。
3階 近代
明治時代以降に軍の管理下に置かれた熊本城の歴史と、西南戦争と天守の焼失、明治22年の熊本地震、昭和35年の天守再建までを映像などで紹介している。
4階 現代
昭和・平成の修理と復元、平成28年熊本地震による熊本城の被害と天守閣の復旧について、映像や模型を用いて紹介している。復興城主デジタル芳名板も設置されている。1回につき1万円以上の寄附をする復興城主は「復興城主」として登録され、この芳名板への掲載のほか、城主の証「城主証」の発行、優待証「城主手形」の発行(個人のみ)などの特典を受けることができる。
https://castle.kumamoto-guide.jp/fukkou/
6階 展望フロア
5階は移動のためのスペースで展示はない。最上階からは、復旧・復興が進む熊本城と熊本の街並みを一望できる。スマートフォンアプリのAR機能を使って、明治初期に撮影された古写真(天守最上階からの眺め)を現代の景色に重ねて表示・閲覧することも出来る。
熊本市熊本城総合事務所・熊本城調査研究センター・文化財保護主任主事の木下泰葉さん
「熊本城に関する古文書・絵図などの調査研究や、展示といった情報発信を担当しています。リニューアルした天守閣の展示は、模型やプロジェクションマッピングを使うなど分かりやすく学べるような工夫がたくさんあります。是非ご覧ください!」
戊辰戦争以降の近代戦を唯一戦って勝ち抜いた名城・熊本城
西南戦争は明治10年(1877年)2月に起きた日本国内で最後の内戦。西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱で、明治初期に起きた一連の士族反乱の中でも最大規模のもの。熊本城は50日あまりにも及ぶ籠城戦の舞台になった。開戦直前の2月19日の火災で天守などが燃え落ち、貯蔵されていた食料なども燃えてしまったが、2月21日、城下へ侵入した薩摩軍への熊本城鎮台側の砲撃から熊本城の戦いは始まった。
翌22日・23日は、薩摩軍による熊本城総攻撃が行なわれ、薩摩軍が大きな犠牲を出しながら段山の占領に成功、段山の山頂から猛射を浴びせて、鎮台側に多くの損害を出した。しかし、鎮台側は猛攻に耐え抜き、薩摩軍は城郭の一角にも取り付くことが出来なかった。
その後は、籠城戦になり、熊本城鎮台は、開戦前の出火で失った糧食の補充が充分でないため糧食不足に苦しんだが、包囲する薩摩軍も長期化する中、高瀬・山鹿・田原・植木などの北部の戦いが激化して、増援部隊を派遣したため減少し、少ない兵力で巨大な熊本城を全面包囲することに苦しみ、応援の政府軍(衝背軍)が4月14~15日に熊本城に入城したことで籠城が解かれた。
熊本鎮台司令長官の谷干城(たにたてき)率いる鎮台兵3300人は、薩摩軍13000人(多いときで)と戦い抜いて、熊本城は明治以降の近代戦を経験した唯一の城となり、落城することなく、難攻不落の堅城であるということを実証した訳だ。熊本城二の丸広場や高橋公園などで西南戦争にまつわる石碑や銅像を見ることができる。
2052年までの長い道のりを確実に歩み続ける復旧の旅
平成28年(2016年)4月14日21時26分以降に発生した最大震度7の熊本地震の前震と本震(4月16日1時25分発生)で熊本城は被災した。
地震による被害は、倒壊・崩落・一部損壊等を含め重要文化財建造物 13棟及び再建・復元建造物20棟のすべてが被災し、石垣は全体のおよそ3割に当たるおよそ2万3600平方メートルに崩落や膨らみ・緩みなど修復を要する箇所が見受けられ、便益施設等26棟も屋根や壁が破損し、地盤についてもおよそ1万2345平方メートルに陥没や地割れが発生するなど熊本城全域に及んだ。
熊本市の大西一史市長は2016年、全体の修復を20年で終える目標を明らかにしていたが、2022年に、復旧が当初の計画より15年遅れ、完全復旧は2052年度となる見直しであると改めて発表している。大西市長は、大規模な石垣の復旧が、国内に前例がなく、当初の想定より復旧の検討に時間がかかり、また仮設の特別見学通路を撤去した後に復旧する必要がある石垣もあることなどから遅れるとしている。国の重要文化財である宇土櫓と復元建造物の本丸御殿の復旧については2032年度に、すべての重要文化財と城内の主な区域の復旧については、2042年度に完了する見通しも明らかにした。
今回の取材では、熊本市熊本城総合事務所・土木整備班主査の馬渡浩司さんに、復旧の現場を案内してもらった。馬渡さんは道路整備畑で仕事をしていたが、地震の翌年、2017年4月から、前例のない石垣の修復担当に。文化財担当も初めてだったが、専門書や論文を読みあさり、専門家や建築会社に相談しながら取り組んできた。
熊本城跡の石垣は国の特別史跡であり、原則として地震直前の状態に戻さなければいけない。簡単に現代的な工法を使えない。従来の積み直しと最新の工法の組み合わせを検討し、最適な工法を探るのに3年かかった。コンピューターでの耐震シミュレーションを行なってきたが、石垣は複雑で、どう動くかを見極めるのは至難の業。8分の1の模型も作って、実験に2年をかけた。
最終的に、最低限の補強材を敷き込むことで、熊本地震と同程度の揺れでも大きく崩落しないという結論に至り、2021年、工事が始まった。被災前の写真と照合しながら、463個の崩落した石材を元の場所に特定した。奇跡の一本石垣で有名になった飯田丸五階櫓も、櫓は解体され、現在は上段部分の石垣の積み直しを行なっている。最後に建物を組みなおして、復旧が完了するという流れだ。
熊本市熊本城総合事務所・土木整備班主査の馬渡浩司さん
「熊本城の石垣復旧に向けた調査・設計・工事の総括監理を担当しています。『奇跡の一本石垣』で知られた飯田丸五階櫓の石垣の積み直しの様子や、崩落した石垣の回収が完了し6年ぶりに姿を現したばかりの石門など、今しか見れない熊本城の復旧をぜひご覧ください」
■熊本城観覧
住所
熊本県熊本市中央区本丸
開園時間
9時~17時(最終入園16時30分)
※天守閣の入場は16時30分まで。
※イベント等により開園時間が延長になる場合あり。
※平日・土曜日は南口券売所からの入出場のみ。
※日・祝は北口券売所・南口券売所のどちらでも入出場が可能。
休園日:年末(12月29日~12月31日)
※年末は開園する場合がある。また、荒天などにより休園する場合あり。
券売所
南口券売所(9時~16時30分)
北口券売所(9時~16時30分)※日・祝のみ利用可
二の丸券売所(8時45分~16時)
わくわく座券売所(8時45分~16時)
入園料
高校生以上 800円
小・中学生 300円
未就学児 無料
チケット事前購入
来園日時が決まっている人はウェブ上にて入園券(電子チケット)の事前購入が可能。購入完了後、登録のメールアドレス宛に電子チケット(二次元コード)が送られる。
※購入後のキャンセルや日時の変更はできない。
https://webket.jp/pc/ticket/index?fc=80006&ac=7001
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