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ラー博にまつわるエトセトラ Vol.41

あの銘店をもう一度がついにフィナーレ!! 大トリは横浜「六角家1994+」

2024年04月09日 12時30分更新

 みなさんこんにちは。2024年の3月に迎える30周年に向けて、これまで実施してきましたさまざまなプロジェクトが、どのように誕生したかというプロセスを、ご紹介していく「ラー博にまつわるエトセトラ」。

 2022年の7月より、過去にご出店いただいた約40店舗の銘店を2年間かけて、3週間のリレー形式で出店していただく「あの銘店をもう一度“銘店シリーズ”」と、2022年11月7日より、1994年のラー博開業時の8店舗(現在出店中の熊本「こむらさき」を除く)が、3ヶ月前後のリレー形式で出店する「あの銘店をもう一度“94年組”」がスタートしました。この企画もついにフィナーレを迎えます。

前回の記事はこちら:ラー博にまつわるエトセトラ Vol.40 あの銘店をもう一度“94年組あの銘店をもう一度 第29弾 初代の味が復活 岩手・久慈「らーめんの千草」

過去の連載記事はこちら:新横浜ラーメン博物館のウラ話

新横浜ラーメン博物館

 大トリを務めるのは、あの銘店をもう一度“94年組” 第7弾 横浜「六角家1994+」

 あの家系御三家“六角家”がラー博に復活します。2024年4月8日(月)から常設店として復活します。

らーめんの千草

 家系御三家として名を馳せた「六角家」。六角家創業者の神藤 隆(じんどう たかし)さんは高校卒業後5年間サラリーマンとして勤めました。その後、洋食のコックとして10年近く働き、いざ店を持とうと思った時、洋食ではなく、自分が昔から好きだったラーメン店をやりたいと思い、家系ラーメンのルーツである吉村家に弟子入り。

らーめんの千草

創業者の神藤 隆さん

 その後、神藤さんは吉村家の2号店である「本牧家」で店長を務め、合計7年間修業した後、1988年六角橋に「六角家」をオープン。六角橋にお店を出したのは当時、横浜で賑やかな商店街(六角橋商店街)があったからとのことで、その地名をとって「六角家」と名付けました。

らーめんの千草

六角家本店(現在は閉店)

 その後、1994年の新横浜ラーメン博物館のオープンメンバーとして出店し、2003年5月31日に卒業すると店舗を増やし、多い時には全国に10店舗ほど展開をしていました。しかし、残念ながら体調を崩し2017年10月末に本店は閉店、2020年に破産手続をとりました。そして2022年10月5日、神藤隆さんはご逝去されました。現在は、神藤隆さんの弟さんが別経営で、戸塚で「六角家」を運営し、六角家の歴史を繋いでいます。

らーめんの千草

1994年ラー博出店時の六角家外観

 あの銘店をもう一度の企画を立ち上げた2021年、ラーメン博物館の館長・岩岡は神藤 隆さんに「この企画で、もういちど六角家をラー博に復活させましょう!」と相談しました。しかしながら神藤 隆さんは、体調を崩していたこともあり「色々と迷惑をかけたし、俺はできないが、弟子がやる形でならば」という話になり、協議を重ねたうえで白羽の矢が立ったのが浜松にある「蔵前家」の袴田 祐司(はかまだ ゆうじ)さん。

 神藤 隆さん曰く「努力とセンスが際立った弟子で、わずか5年弱で独立を認めた優秀な弟子。今は浜松に移り住み自分のお店を20年以上繁盛させている。」とのこと。そして今回のプロジェクトは、六角家戸塚店にも協力・賛同いただきスタートを切ることになりました。

らーめんの千草

左から袴田祐司さん、露木あゆみさん、岩岡館長

 袴田 祐司さんの実家は1974(昭和49)年から続く老舗浜松餃子のお店「紀楽」を営んでいます。「紀楽」ではラーメンも出していましたが、袴田さんはもっと美味しいラーメンを出したいと思い「新横浜ラーメン博物館に行けば美味しいラーメンがあるはず」とラー博を訪れ、そこで食べた「六角家」の味に衝撃を受けたのです。その後、毎週のように浜松から六角橋の本店やラー博に通っていたある日、六角橋の本店を訪れた時、店先に「急募」と書いた求人募集が出ていて、袴田さんは迷わずすぐに連絡をしました。袴田祐司氏が六角家に弟子入りしたのは1996年の3月20日。最初は本店から入りその後、ラー博店でも働くようになりました。

らーめんの千草

袴田祐司さん

 袴田さん曰く「当時の六角家は本当に厳しい世界で、2~3日で辞める人がほとんどで、10人弟子がいたとしても残るのは1人くらいでした。自分は早く独立したかったため、誰よりも早く店に入り、技術を身に付けました。あの時の苦労があって今があると思います」とのこと。

 袴田さんは独立が認められ2001年7月に東京都台東区蔵前に「蔵前家」をオープン。袴田祐司氏曰く「浜松に戻ることも考えましたが、実家も人手が足りていたし、当時東京の東側に家系ラーメンが少なかったこともあり、蔵前で店をやることにしました」。その後、2009年4月に浜松に移転し、現在に至ります。

 企画のフィナーレを飾る六角家はレギュラー店として復活します。屋号の「六角家1994+」はラー博に出店した1994年当時の味を、30年間の技術と経験により進化(+)させたという意味が込められています。

らーめんの千草

 袴田さん曰く「私が神藤さんから直接指導を受けた際に、神藤さんが一番大事にされていたのは、骨のバランスと、炊き方とタイミングです。この部分が変わると味は大きく変わります。私も一番そこを大事にしております。」とのこと。さらに「神藤さんが目指していたスープはとんこつと醤油ダレのバランスが絶妙になるのですが、中々簡単にはいきません。理想に近づいたときはスープに甘みが出ます」。そこで袴田さんは、理想のスープをさらに進化させるため、既成概念を捨て、一から研究し直しました。炊き方に関してより理想に到達する方法として寸胴ではなく、直系1.3メートル以上ある大釜でスープを取るように変えました。

らーめんの千草

「大釜を使うことにより、対流が良くなり、焦げ付きがなくなります。そして開口が広いため、豚臭さもなくなります。使用する食材は神藤さんがやられていた頃とそれほど変わりませんが、理想のスープに近づけるようになりました」とのこと。

 袴田祐司氏が考える六角家らしさとは、旨味がしっかりありながら、とんこつと醤油のバランスが取れていること。「この20年で家系ラーメンは醤油感の強いタイプが主流となりました。この流れを決して否定しているわけではなく、私が初めて食べて衝撃を受けた“クラシックタイプ”の家系ラーメンが好きですし、神藤さんもその味を追求されていましたので、私もその方向を極めようと日々試行錯誤しております」とのこと。

 残念ながら、神藤隆氏はご逝去されたため、今回の味を食べていただくことは出来ませんが、戸塚店末裔の協力を得て「このコンセプト、この味ならば」ということで承認をいただきました。

らーめんの千草

ラー博に復活した六角家1994+

 2022年から連載を続けてきました「ラー博にまつわるエトセトラ」。

 vol.7からは30周年企画「あの銘店をもう一度」をメインに紹介してきましたが今回で終了となり、今後は新たなコンセプトで連載を続けていければと思っております。今後ともどうぞよろしくお願い致します。

新横浜ラーメン博物館公式HP
https://www.raumen.co.jp/

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文/中野正博

プロフィール
1974年生まれ。海外留学をきっかけに日本の食文化を海外に発信する仕事に就きたいと思い、1998年に新横浜ラーメン博物館に入社。日本の食文化としてのラーメンを世界に広げるべく、将来の夢は五大陸にラーメン博物館を立ち上げること。

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