最新鋭の超高層オフィスと丸の内ビジネス街の黎明期のオフィスが共存!
2023年11月24日 13時00分更新
丸の内の地下世界をめぐる「丸の内ダンジョン」の連載から、今度は地上へとあがり、高層ビルをはじめとした丸の内の建物群を現場のレポートを交えながら紹介する連載「丸の内建築ツアー」が前週よりスタート。前回は、世界的にも特殊な丸の内の街を俯瞰して全体をご紹介しましたが、2週連続更新となる連載第2回となる今回は、いよいよそれぞれの歴史的建造物や高層ビルの魅力に迫っていきたいと思います。
丸の内はじまりの地「三菱一号館美術館」と「丸の内パークビルディング」
個別の建物を紹介していく連載の第一回としては、さまざまな魅力的な建造物の中から、どこの歴史的建造物&高層ビルを紹介するか、とても悩みましたが、やはり丸の内のはじまりの地といっても過言ではない「三菱一号館美術館」と、その背後にそびえたつ丸の内を代表する高層ビル「丸の内パークビルディング」を取り上げたいと考えました。
ドラマや映画でもよく見かける絶好のロケーション
ドラマや映画のロケ地としても使用されることも多く、外観を目にした方も多いと思われる三菱一号館美術館ですが、現在は、設備入替および建物メンテナンスのため、2024年秋頃まで長期休館中とのことで、仮囲いの装飾が施されています。普通、建築物の修繕やリニューアルの際に使用される囲いというと、味気ないものを想像しますが、そこはさすが「三菱一号館美術館」。美術館のロゴマークをデザインした服部一成氏が、三菱一号館美術館のアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック作品をモチーフに、全28作品を自在にコラージュした、高さ14.4m、総面積約1,250㎡におよぶ、大型の仮囲い装飾をしているのです。
ということで、リニューアルオープン後にもまたその新たな姿は紹介したいと思いますが、今回はその歴史や、建物の魅力、改装中の建物の写真なども交えて紹介していきます。
約130年前に初めて建設されたオフィスビル「三菱一号館」
日本最大のビジネス街として名を轟かせる「丸の内」で、初めて建設された地上3階、地下1階のオフィスビル「三菱一号館」は、1894年6月30日に竣工しました! なんと、今から約130年も前に今の丸の内オフィスビル群の起源があり、さらには浦賀にアメリカの東インド艦隊司令長官のペリーが来航したのが1853年、江戸幕府が日米和親条約に調印したのが1854年ですから、日本の開国からわずか40年でビジネスのための本格的なオフィスビルの建設が始まったことになります。当時、丸の内は明治維新後に大名屋敷が取り壊され、陸軍の兵舎や練兵場として活用されていましたが、陸軍兵営移転後の1890年に明治政府から三菱財閥総帥の岩崎弥之助に払い下げられ、約10万坪もの広大な荒地が広がる「三菱ケ原」がありました。そんな「三菱ケ原」に英国・ロンドンのシティをモデルとした大規模なビジネス街を開発する計画が浮上します。
関東大震災にも耐えた三菱一号館
三菱一号館は、イギリス人建築家で明治政府の建築顧問を担当していた「ジョサイア・コンドル」により設計され、施工は東京駅丸の内駅舎も設計した辰野金吾とともにジョサイア・コンドルの教え子の一人であり、日本人建築家の第1期生でもあった「曽禰達蔵(そね たつぞう)」が現場主任として直営工事がなされました。構造は、杭基礎とコンクリート布基礎の併用、鉄骨梁と波形鉄板にコンクリートを打設したスラブ、帯鉄で補強した煉瓦壁といった耐震性を考慮したものとされ、1923年の関東大震災にも耐えています。
外観デザインは、主にイギリス・クイーンアン様式のイギリス積・煉瓦組積造を基本としており、屋根は折衷スタイルで尖ったゴシック様式、窓は窓枠の外側部分に安山岩、腰壁部分を四段積にした花崗岩を用いたエリザベサン様式を採用した折衷様式となっています。また、施工当時の屋根は日本産の石板を使ったスレート葺としていました。
三菱一号館建設後は、丸の内の南側、馬場先通り沿いには軒高と意匠に統一感のある煉瓦造の建物が建ち並び、「一丁倫敦」と呼ばれるようになりました。その後、1914年に東京駅が開業、アメリカで鉄骨鉄筋コンクリート造を用いて施工期間を短縮することや耐震性の向上を行うことが可能なオフィスビルの建設が始まっており、それを模範としてアメリカ式の鉄骨鉄筋コンクリート造で高さ100尺に揃えたオフィスビル群へと生まれ変わっていき、「一丁紐育」と呼ばれるようになっていきました。
戦後の高度経済成長期のスクラップ&ビルドによって突如姿を消した三菱一号館
太平洋戦争後の高度経済成長期に丸の内エリアでは、オフィス需要が急増しており、三菱一号館のある街区の再開発が計画されました。なお、そのころには既に周辺の丸の内黎明期に建てられた「一丁倫敦」の煉瓦建築は姿を消していました。そんな中で、三菱一号館は1968年3月21日に解体工事を開始、翌日の夜間に足場を組み、翌々日には解体工事が始められるという、スピード解体劇が行われました。高度経済成長期におけるオフィス需要の急増・逼迫に対して日本国内でトップクラスのビジネス街であった丸の内には最先端のオフィスを建設、社会に対して供給していく必要があり、跡地には1971年に地上15階、地下4階の旧「三菱商事ビルヂング」が竣工しています。
平成の丸の内再開発と三菱一号館の復元
そしてここからがいよいよ本連載の核心部分。歴史的建造物と高層ビルが融合した景観がどう作られていったのか、そのコントラストの魅力に迫っていければと思います。
2000年代に入り、高度経済成長期に建てられたオフィスビルの老朽化や狭隘化が進み、三菱地所が推し進める「丸の内再構築」の第2ステージ第1弾として、当時、三菱一号館の建っていた街区に建つ1928年竣工の「丸ノ内八重洲ビルヂング」と1965年竣工の「古河ビルヂング」、1971年竣工の「三菱商事ビルヂング」を再開発する計画が浮上します。この中で最も古い「丸ノ内八重洲ビルヂング」は、昭和初期の近代建築物で一丁紐育の姿を残す建築であったため、現在も丸の内パークビルディングの低層部分の一部に外壁が保存されています。
丸の内パークビルディングの誕生と三菱一号館の復元
この再開発によって、地上34階、地下4階、高さ169.983mの超高層ビル「丸の内パークビルディング」が建設され、「三菱一号館」は当時の外観や構造を再現しつつ現在の建築基準法をクリアするために免震構造を採用したほか、着工直前に決定した美術館としての用途・機能を満たすために当時とは一部間取りの変更がなされています。また、三菱一号館は復元時には化粧煉瓦20万個、構造煉210万個、合わせて230万個もの煉瓦が用いられ、天然スレート11万枚を屋根に用いたものとなっています。既に日本国内では生産ができないものも多数あり、主要材料の煉瓦においても中国に特注しているほか、屋根のスレートも日本では大量生産ができないため、スペインで生産されたものとなっており、施工現場での職人も日本全国から60人の煉瓦職人を集め、技量試験を実施して実際の技量を確認したのちに職種を割り当てるなどしたとのことです。
新旧のビジネス街の不思議な空間を体験
約100年ちょっと前の建築ですが、既に日本国内だけでは技術的に失われてしまった、いわゆる「ロストテクノロジー」と化しており、復元という作業に日本中のみならず世界中の力が使われたという凄まじい建築になっていることに驚かされます。なお、新築された超高層オフィスビルの丸の内パークビルディングは、外観がアールを描いたガラスファサードの曲面という、現代ならではのデザインが採用されているほか、低層部分は歴史的建築物の保存箇所と調和するよう、繊細な装飾が施されていたりする特徴があります。
「ロストテクノロジー」によって日本国内だけでの復元が困難に
この三菱一号館の流れを見てみると、建設当時は流行しているごく当たり前の建築スタイルを取り入れつつも、30~50年すると時代遅れになり、次の時代のものへ強制かつ定期的に解体、建て替え(取り換え)がなされ、100年以上すると復元しようという動きが出てきますが、既にロストテクノロジーになってしまっている・・・という流れが建築だけでなく、もしかすると様々な分野で起きている現象なのかもしれませんね・・・!?
ということで、今回の建築ツアーは終了です。今回、あらためて三菱一号館美術館と丸の内パークビルディングを歩いてみました。その歴史を振り返りながら、最新技術にも触れましたが、たった100年前の技術がすでに消えているという、技術革新のスピードを感じる建築であり、最新鋭の超高層オフィスと、日本のビジネス街の黎明期のオフィスが共存する不思議な空間だと感じました。
文/きりぼうくん
超高層ビル、タワーマンション、駅ビル、地下街、再開発ネタを発信する「超高層ビル・都市開発研究所」の運営をしているブロガー。デベロッパー、ゼネコンのニュースリリース、さらには内閣府や都道府県など行政機関が出す情報を得て、現地を実際に巡るスタイルで取材。記事は9年間ほぼ毎日更新。Twitterでもアツく情報を投稿し、フォロワーは約3.6万人に及ぶ筋金入りの都市開発マニア。
・ブログ「超高層ビル・都市開発研究所.blog」
・Twitter 「超高層ビル・都市開発研究所の中の人 (きりぼうくん)」
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