日本の歴史に残るあのビルは今でも現役で稼働中
日本を揺るがす大事件の記憶を持ち、今も丸の内を見守る「丸の内二丁目ビル」
2025年05月23日 12時00分更新
高層ビルや歴史的建造物など、丸の内の建築群を現場のレポートを交えながら紹介する連載「丸の内建築ツアー」。今回は、丸の内仲通りに面した場所に建ち、1974年8月に三菱重工爆破事件もあったことで有名な「丸の内二丁目ビル(旧 三菱重工ビルヂング)」を紹介します。
仲14号館と三菱商事ビル
丸の内二丁目ビルが建設される前、敷地の南側半分にあたる場所に「第25号館(仲14号館)」、北側半分に「三菱商事ビル(新三菱重工ビル)」が建っていました。
東京駅が開業し、丸の内が「一丁紐育(いっちょうニューヨーク)」と呼ばれるようになった頃、桜井小太郎の設計によって「第25号館」の建設が始まりました。1917年には、鉄筋コンクリート造・地上3階地下1階建てのセセッション様式風の建物として竣工します。
この第25号館は、各テナント区画ごとに屋外から直接出入りできる「長屋タイプ」のオフィスビルであり、当時はまだ共用のエントランスを持たない構造が一般的だったようです。
そして戦前の1935年10月には、敷地北側半分に三菱財閥の別館としてのオフィスビルが着工します。地上8階、地下1階の「三菱商事ビル」は、1937年3月に竣工、三菱財閥のうち三菱商事会社が本店を置き、ビルを買収しています。第二次世界大戦後の1946年1月にはGHQに接収され、GHQ外交部・米国大使館として利用されるようになりました。接収解除後も、1953年12月まで米国大使館として利用が続けられました。1958年になると新三菱重工ビルと改称され、高度経済成長期であったことからオフィス需要が旺盛となっており、建て替えへと動き出します。
丸の内二丁目ビルの計画・建設
1962年9月、高度経済成長期の真っ只中に、現在の丸の内二丁目ビルの南側半分にあたる場所に建っていた「第25号館(仲14号館)」の建て替えが決定しました。日本政府による建築抑制策や予算の関係により、新ビルの着工時期は未定のままでしたが、テナントの移転が完了した部分から順次、解体が進められることとなりました。その後、まもなく建築抑制策が解除され、1963年2月に地鎮祭が執り行なわれ、着工します。着工時は、仲14号館跡地のみの建て替えで建設が進められており、将来的に東側に隣接して建っていた「三菱本館」の建て替え時に建物を接続する設計で建設が進められていました。
なお、その頃、財閥解体によって分割されていた三菱日本重工業、新三菱重工業、三菱造船の旧三菱重工業3社が合併する構想が進められており、1950年代後半にこの3社は丸の内に本社を移転していました。そして1964年6月にこの3社は合併し、三菱重工業が誕生しました。
1964年8月には、仲14号館跡地で建設が進められていた「三菱重工ビルヂング」の1期部分が竣工します。1期部分は、地上9階、地下4階、延床面積23,128㎡のビルとなり、合併した三菱重工業がテナントとして入ったため、三菱重工ビルヂングと命名されました。その後、北側に建っていた「三菱商事ビル(新三菱重工ビル)」を東側隣接地の「三菱本館」の建て替えに合わせて建て替えることになり、北側半分の第2期増築部分は、1971年9月に着工、1973年3月に竣工します。第2期は、地上10階、地下3階の規模となり、第1期と合わせて延床面積45,985.39㎡となりました。また、東側の三菱本館跡地に竣工した三菱ビルヂングと接続されています。
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