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立ち退き交渉→覚書→反対→白紙→再交渉→まだ揉める 大揉めの末ようやく完成した「有楽町電気ビルディング」

2025年06月20日 12時00分更新

有楽町電気ビル建設前の電気ビルやスバル街

 有楽町電気ビルヂングが建つ地の歴史は、なんと江戸時代・安政の世、明治維新の9年前となる1859年にまでさかのぼります。現在、北館が建っている場所には「有楽稲荷神社」がありました。永井飛騨守が天下泰平と子孫繁栄を祈願して建立した神社で、1923年の関東大震災でも周囲が延焼していく中で難を逃れました。その後、有楽町電気ビルヂング建設時に赤坂の日枝神社に遷座されましたが、現在は有楽町電気ビルヂング敷地内(有楽町駅側)に復座しています。

 そして1892年には、電気協会のもととなる日本電燈協会が設立。1920年には有楽町の日本俱楽部が移転することを契機に、日本電燈協会は現在有楽町電気ビルヂング北館が建っている西側へ移転、その後、1921年に旧電気協会が発足して「電気倶楽部会館」となります。しかし、1923年9月に関東大震災が発生し、電気倶楽部会館は焼失してしまいます。1927年8月に帝都復旧計画に伴い、鉄筋コンクリート造の地上6階、地下1階、延床面積4,000㎡の耐火建築物に建て替えられ、1934年には南側隣接地(現在の有楽町電気ビルヂング南館の西側付近)に地上5階、地下1階、延床面積3,577㎡のビル「電気協会会館」が増築されます。

 そして、太平洋戦争中の1945年5月25日、大空襲により電気協会会館は爆弾の直撃を受け、建物内部が全焼しました。また、隣接する電気倶楽部会館も、3階の渡り廊下から延焼し、2階以上の内部にまで火が燃え移りました。なお、電気俱楽部会館も電気協会会館も鉄筋コンクリート造耐火建築物であったため、倒壊を免れ、応急復旧にて供用され続けました。そして戦後の1947年5月に社団法人日本電気協会が発足、1956年には電気協会会館に6階部分が増築されました。

「有楽稲荷神社」は1859年建立

1936年6月時点の様子。電気俱楽部会館と電気協会会館が建っていることが確認できる(出典:国土地理院撮影の空中写真)

1949年3月時点の様子(出典:国土地理院撮影の空中写真)

1963年6月時点の様子(出典:国土地理院撮影の空中写真)

1975年1月時点の様子。有楽町電気ビルヂング 北館の建設が進む(出典:国土地理院撮影の空中写真)

1984年10月時点の様子(出典:国土地理院撮影の空中写真)

有楽町電気ビルヂングの建設

 戦後、昭和の高度経済成長期に突入した有楽町駅南西側(南側を晴海通り、西側を丸の内仲通り、北側を丸の内 7th St.に囲まれた一帯)には、北西側に「電気俱楽部会館」、南西側に「電気協会会館」、北東側に「有楽稲荷神社」が位置していました。また、街区の北側にある電気協会所有地の一部には、戦後の混乱期に不法占拠されてできた飲食店が軒を連ねる横丁「スバル街」が広がっていました。スバル街は、近くに建っていた有楽町スバル座に因んだもので、有楽町駅を挟んだ東側の「すし屋横丁」と並んで有楽町の横丁として栄えていました。なお、不法占拠であったため、1955年頃から電気協会により立ち退き交渉が進められていました。そして1960年後半までには日本電気協会、電気倶楽部、富士アイス、明治生命保険、東宝、東光建物、国際自動車、東京都交通局の8地権者が土地を所有する状態となり、1966年には電気協会が進めていた立ち退き交渉にも目途が立ちます。3年間の立ち退き猶予期間が設けられたほか、その3年間は地代家賃ともに無料という条件によって和解し、電気協会は三菱地所に対して、ビル建設の協力依頼を行います。電気協会によるスバル街の立ち退き交渉は、1968年8月に成立し、ビル建設の計画が進められました。

 三菱地所は、近隣で建設されていた「新有楽町ビルヂング」の区分所有権の交換を提案し、1969年4月に電気倶楽部所有地(電気俱楽部会館)876.53㎡を三菱地所が取得し、電気倶楽部は新有楽町ビルヂングの区分所有権を取得する旨の覚書を締結します。しかし、ここで立ち退き交渉に次いで2つ目の問題が浮上します。3年間の立ち退き猶予期間によって事業が遅延し、その3年間の稼働損の保障について三菱地所と電気協会で考え方に食い違いが生じたのです。さらに3つ目の問題として、締結はされたものの、電気協会会館のビルテナントが移転(立地が変わる、移転関連工事費の費用負担等)することに対する強硬な反対がありました。そして4つ目の問題として、電気協会が初めてビルを建てた場所で土地は手放したくないという協会会員の意向があったことです。交渉は暗礁に乗り上げてしまいました。

 三菱地所は先行して街区北西側の「電気俱楽部会館」跡地に新ビルを建設する計画を進行し、並行して街区南側の日本電気協会とも交渉が進めることにしました。いったんは電気協会側が白紙にして独自建て替えを検討しましたが、土地形状や資金繰りの面では無理があり、三菱地所への協力依頼の必要性を認めるようになっていました。そのような中で、1970年9月に電気協会所有地内にあったスバル街医院の移転問題が解決、翌月には三菱地所と電気協会での共同ビル建設の交渉が改めて開始されます。1971年6月には、三菱地所と電気協会が共同でビルを建設し、敷地所有割合に応じて区分所有するほか、スバル街の訴訟費用に関しても三菱地所が電気協会に資金を貸し付ける形で肩代わりすることで解決します。そして、電気俱楽部会館とスバル街跡地を「北館」として1期工事で建設、その後、北館に電気ビルのテナントを移転させてから、「南館」を2期工事で建設する覚書が交わされます。

 1971年10月に地鎮祭が行われましたが、ここで新たな問題が浮上します。明治生命保険、東宝、東光建物、国際自動車、東京都交通局の残る5者の地権者から了承が得られておらず、了承を得るのに1年以上を要し、1973年3月1日にようやく北館が着工、1975年9月23日に地上20階、地下2階、高さ87.0m、延床面積45,192㎡の北館が竣工します。ビルの名称は、電気協会の旧ビルが「電気ビル」として親しまれていたこともあり、他の地権者の了承も得て「有楽町電気ビルヂング」と名付けられました。その後、南側に南館の2期工事に着手する予定でしたが、再び各所有者やテナントとの交渉が難航します。特に東光建物のビルは十分に使用できる建物であったことやテナントとの関係から、交渉が長引きました。なお、東宝有楽ビルも共同ビル建設を三菱地所側が申し入れていた際に建設されていた新しいビルでしたが、帝国劇場や国際ビル建設時からの友好関係により解体を快諾します。そのような流れで、1977年2月には南側のビル解体に着手、1977年6月に南館の新築着工、1979年3月26日に地上18階、地下4階、高さ79.5mの南館が竣工し、全体が70,287.65㎡となる有楽町電気ビルヂングは全面完成しました。

有楽町駅前から見た有楽町電気ビルヂングの様子

有楽町電気ビルヂング 北館。北館は地上20階、地下2階、高さ87.0m、1975年9月23日竣工

有楽町電気ビルヂング 南館。南館は地上18階、地下4階、高さ79.5m、1979年3月26日竣工

南東側から見た有楽町電気ビルヂングの様子

南西側から見た有楽町電気ビルヂングの様子

有楽町電気ビルヂングは丸の内エリアの超高層ビル群の南端に位置する

北西側から見た有楽町電気ビルヂングの様子

有楽町電気ビルヂングのエントランス。茶色の庇に金色の文字という組み合わせで昭和のオフィスビルの雰囲気が漂う

 以上で今回の建築ツアーは終了。50年以上有楽町に建ち続ける有楽町電気ビルヂング、中に入ると懐かしい昭和の雰囲気が漂っていて逆に新鮮さもあります。ビルが完成するまでとにかく大変だったことが分かりましたが、その分こうして長く有楽町を見守ってくれていると思うと、当時建設に向けて頑張った方々の思いも報われたように感じられますね。

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