三好三人衆が織田信長に奇跡の判定勝ちをおさめた大阪・野田城跡を戦国メタ散歩☛【戦国のズッコケ三人組!? 戦国LOVEWalker #05】
2023年09月13日 13時00分更新
戦国LOVE Walker生放送の第5弾は、しびれるマニアックネタの「三好三人衆」。戦国時代、「天下」と言えば日本全国でなく、関西、とりわけ、京都を中心にした畿内だったと言われるが、戦国最初の天下人と言えば、三好長慶。そして、その配下には、有名な松永久秀と並んで、三好三人衆という腕利きの有力武将が活躍していた。しかし、名前は聞くものの、何をした三人衆だったのかはイマイチ知られていない。”全然掘り下げられてないの、やっぱりおかしいじゃない?”と言うことで、熱く語ったこの回、なぜか終始、挑み続けた織田信長に、一泡吹かせたのが、野田城・福島城の戦いだった。
JR野田駅は、大阪環状線で、大阪駅から内回り(反時計回り、左回り)で2駅目にあたり、まさに中心部にある。因みに、大阪駅と野田駅の間が福島駅で、区の名前も福島区。野田城と福島城は、今は全く痕跡がなく、当時は海がすぐ近くの中州だったため、地形も大きく変わっていて、正確な場所は特定できない。二つの城は近くにあり、連動した拠点だったらしい。わずかに字名から、この付近が城跡と考えられている場所に石碑が二か所、建っている。
一つはJR野田駅からほど近いマンションの一角。大阪メトロ千日前線の玉川駅の出口を出た所にある。もう一つは、歩いて数分のところにある極楽寺の門前にあり、すぐ東側には、野田恵美須神社があって、城域に含まれていたと思われる。極楽寺は、野田御坊極楽寺、また清浄山と号し、真宗東本願寺の末寺にあたる。
元亀元年の土壇場で現れた石山本願寺の顕如軍に三好三人衆は窮地を救われたが、それは10年に及ぶ石山合戦の始まりだった
野田城は直近にあった福島城(場所が特定できず、石碑などもない)と二か所一城であったと伝わる。享禄4年(1531年)、細川高国と三好元長による中嶋の戦いの時に、細川高国と同盟関係にあった浦上村宗が野田と福島の地に陣取って築城したというのが文献に見られる所見である。
”天下人”ともいえる権勢を誇った三好長慶が没した後は、足利義昭を擁した織田信長が京都を席巻したが、永禄12年(1569年)1月、阿波に退いていた三好三人衆が畿内に上陸、京都の義昭を襲撃したが(本圀寺の変)敗退。しかし、元亀元年(1570年)6月、畿内から織田軍主力が岐阜に戻った隙を狙って三好三人衆は、また、阿波から畿内に進出、挙兵した。
三好三人衆は7月21日、摂摂津中嶋から、野田・福島に移り、野田城・福島城を改築した。 石山合戦配陣図によると、西側が海、北・南・東は川に囲まれた島のような場所であったと推定され、堀を掘りなおし、壁をつけ、櫓を建てるなどの補強をした。信長公記によると、この時の三好三人衆は8,000人余りで、織田信長軍は3万人余りだったと言われる。ここに足利義昭将軍の部隊、更には、2万人とも言われる雑賀・根来連合軍が加わったことにより、デルタ地帯で川などに囲まれた要害、野田城・福島城に立てこもる三好三人衆も進退窮まり、織田信長に和平を申し込むが、拒絶され、絶体絶命の状況だった。
しかし、ここに奇跡が起こる(まあ、事前に連絡を取っていた、という説もあるが)。織田信長が野田城・福島城に直接攻撃を開始したのが9月11日で、翌12日には鉄砲による攻撃が開始され、そこに雑賀・根来連合軍が援軍として加わったわけだが、この日夜半に、石山本願寺の顕如軍が三好三人衆側について、織田軍を襲ったのだ。石山本願寺は今の大阪城だが、野田城からは約4キロの位置。Googleマップだと徒歩で5.7キロで1時間24分で着く。
この援軍で、和平を申し込むほど、追い詰められていた三好三人衆は息を吹き返し、翌13日早朝には、石山本願寺軍が、織田軍がせき止めていた防堤を打ち破って、信長軍の陣屋は、ことごとく水につかり、せっかく攻略した浦江城や、野田城・福島城を取り込んでいた砦も海水に浸かった。16日には、近江で浅井・朝倉連合軍が信長の背後を突く進軍を開始し、さらには、顕如の要請を受けた延暦寺の僧兵が反織田信長連合軍に加わるに至って、23日、信長は全部隊に撤退命令を出し、足利義昭と共に帰京した。
まさに、絶体絶命の土壇場で判定勝ちに持ち込んだのだ。そして、織田信長と石山本願寺の10年に及ぶ石山合戦の始まりだった。
戦国時代からの流通の拠点、野田には全国で初めて認可された中央卸売市場があり、とびっきりの食材の飲食店が軒を連ねているぞ
この辺りは、水都大阪ならではの河川地帯。平安時代には難波八十島(なにわやそじま)といわれる島々が点在していた。今も野田は、淀川と安治川に挟まれた場所にある。大阪の都心は想像以上に水が近い。
そして、同時に大阪の流通の要でもあった。三好三人衆から野田城を奪った織田信長が毛利との2次にわたる木津川の戦いの本拠地をこの城に置いたのも、地の利があったからだ。
明治維新の後も、野田城跡から南に歩いて10分ほどの安治川沿いの水陸ともに至便な福島区野田(現在地)に、大阪市議会は大正14年3月、中央卸売市場の候補地を決定し、農商務省に申請。全国ではじめての中央卸売市場として認可された。 大阪市は1800万円の予算で着工し、昭和6年3月28日に竣工、同年11月11日に開場した。現在は、大阪市中央卸売市場本場と呼ばれる。
普段は入れないが、見学は予約すれば可能。実際の果物の「せり場(せりは終了)」の見学や仲卸店舗での仕入れ体験(一部の店舗での買い物)などを通じて、市場の仕組みについて理解を深めることができる。
大阪市中央卸市場本場には、関連棟(マイドプラザ)、飲食棟、業務関連棟、本場内などに飲食店があり、本場で働く人たちや観光客の楽しみになっている。 今回お邪魔したのは、飲食棟にある、海鮮丼 うどん 天ぷらのお店「汐風」。海鮮丼は種類が多く、大阪ならではの「こぶうどん」とのハーフセットは大満足の1150円(税込み)。この日、玉置が選んだのは、ねぎとろサーモン丼。こぶうどんは、いわゆる大阪うどんの一種で、とろろ昆布を掛けうどんに乗せたものを言う。コンブではなくコブと言う。おぼろコンブを乗せると、おぼろうどんと言うこともある。大阪ならではのソウルフードだ。
■海鮮丼 うどん 天ぷらのお店「汐風」
住所 大阪府大阪市福島区野田1-1-86 大阪市中央卸売市場本場 飲食棟二号
営業時間 [月~土] 6:00~14:30
17:00~22:00の営業は予約が必要
*中央卸売市場定休日と祝日は11時頃オープン 水曜日のオープンは要電話確認
休日 日曜日
ホームページ https://shio-kaze.wixsite.com/mysite
■大阪市中央卸売市場本場公式サイト
https://honjo-osaka.or.jp/
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